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●人物

忠敬が測量に取り組んだ動機

測量に取り組んだ動機


忠敬をめぐる人々

忠敬をめぐる人々

1998.8»朝日新聞8回連載(作者:安藤由紀子さん)

1.周辺にいた「鬼平」5.地図作りのキーパーソン

「鬼平」 キーパーソン

2.恵まれた女運6.堀田摂津守正敦

恵まれた女運 堀田摂津守正敦

3.厳父であり「教育じじ」7.科学する大名・旗本たち

「教育じじ」 科学する

4.二人の師8.坂部貞兵衛

二人の師 坂部貞兵衛

 

長女「イネ」の勘当を許す

勘当を許す

このたび、思いがけず、「大阪古典会」の図録に忠敬の書状がのっているということで、5月21日に、伊能陽子さんが、そのコピーをファックスで送って下さった。25日になると、その“発見”に関する記事が産経新聞にのった。その書状を紹介し、気づいたことを記しておきたいと思う。

小島 一仁

(伊能忠敬研究 第29号 2002年)

赦免状長女イネ勘当の赦免状解読

 

二男秀蔵を追放

秀蔵を追放

第一次測量から第六次測量まで行動をともにした二男秀蔵は、二人目の妻(内妻)の法名「妙諦」に生ませた子であったが、忠敬と相性がよくなかった。第六次測量の途中でなにか問題を起こしたらしく、病気療養中という名目で帰国の途中、大坂から帰された。それ以後、測量には伴わず、留守居などさせられていたが、文化12年(1815)にとうとう家を出されてしまった。

 

潮音 風声

潮音風声

元伊能忠敬記念館館長 佐久間達夫さんの読売新聞連載記事

1.3753日の測量日誌4.富士山に安らぐ

「鬼平」 キーパーソン

2.古歌と忠敬5.大事業の陰に

恵まれた女運 堀田摂津守正敦

3.藩主からの贈り物

「教育じじ」

 

遅咲きの人

遅咲きの人

2004.5.2 日本経済新聞

“若い友との豊かな人脈”

 

推歩先生

推歩先生

1998.4.10 朝日新聞の記事

 

窮民救済を旅先から指示

窮民救済を指示

凶作の報せを受けて 文化九年(1812)10月5日、九州第二次測量中の忠敬は豊後の日田(ひた)で、娘の妙薫から、利根川が大洪水なので、忠敬の所持金の利息を使って救済出動すべきだと思う、という書状を受け取る。忠敬は直ぐに対策を指示した。

 

上司の景保は息子のようなもの

景保は息子のようなもの

景保の不始末を聞いて、親子ほど歳のちがう上司に対し、しょうがないな、との思いが強かったのだろう。

 

●人物

タダタカそれともチュウケイ?

伊能のよみ

佐久間 達夫

今から十年程前、ある会合で、伊能忠敬のことが話題にのぼり、「忠敬の名前の読みは、夕、ダタカかチュウケイか」ということになり、それを傍聴していた S 新聞社の記者が拙宅へ訪ねてきた。左肩にカメラをさげ、右手にメモ用紙を持ったその記者は、応接室の椅子にすわり、暫く雑談をした後、「今日の会合で、伊能忠敬の名前の読みが問題になったが、夕、ダタカとチユウケイのどちらが正しいですか」と、質問する。筆者は、「夕、ダタカが正しいです。しかし、その理由を説明するには少し時聞がかかるがいいでしょうか」「結構です」ということになり、次のように話した。

伊能忠敬は、宝暦12年 ( 1762 ) 12月8日に、佐原村 ( 現香取市佐原本橋元 ) の伊能三郎右衛門家の一人娘「達」の婿養子に入ったのですが、そのとき仮親であった千葉県多古町南中の平山藤右衛門季忠が、三治郎 ( 忠敬の幼名 ) の地位を高めるために、自分の師であった江戸国平曇林大学頭鳳谷に願い出て、三治郎を形式的に入門させ、名付け親になって貰ったのです ( 「旋門金鏡類録」「伊能家家牒」


「ごしんつあま」賛歌 ー祖母の思い出 -

祖母の思い出

伊能 洋

いつの間にか私より年長の肉親は、姉一人を残すのみとなった。以前から、祖母孝 ( こう ) のことを書いておかねばと思いながら、手をつけられずにいたが、覚えていることもあやふやになって来たので、この辺で記憶の一端を書き留めておこうと思う。

伊能 は、忠敬より四代目となる三郎右衛門景文とひさの長女として、慶応二年佐原の忠敬旧宅で生まれた。女ばかりの五人姉妹で、私が高校の頃まで四人が揃って長寿を保っていた。嗣子が居なかったために、同族の伊能七左衛門家から端美 ( たみ ) を婿養子に迎えたは、88年を同じ家で過ごし、生まれた畳の上で人生を終えるという、女性では珍しい生涯を送った人だった。1866年生まれのは忠敬の没年から僅か48年後の誕生ということになる。三郎右衛門家の後見として、忠敬の遺品の整理・保存に力を尽くしてくれた同族、伊能茂左衛門節軒は晩年の忠敬を見ており、始め五姉妹の名付け親であった。にとって忠敬は、今私たちが考える以上に身近かな親しい存在としてのチユウケイ先生であったに違いない。

は私の父康之助、長女、次男と三人の子を生んだが、次男は十代で病没した。

なお、祖母は小柄だが恰幅は良く、出入りの人々に‘ごしんつあま(ご新造さま)’と呼ばれて慕われていた。


忠敬の蝦夷地測量推測図

蝦夷地測量推測図

 

 

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