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よくある質問 (Q&A)

Q01 第1次測量では、具体的に緯度はどのように計算したのでしょうか?

 奥羽街道に沿って、直線距離をはかり、曲がり角では北からの方位を測って、屈折角をきめ、直線の連続、いわば折れ線による測量下図を描いてゆきます。そして下図上で南北の直距離を決めたのではないか、と推測されます。推測というのは、そうしたかどうか、記録がないからです。また、北海道では日記によると、歩測も十分にはできていませんから、全区間で平均して緯度を求めてはいないと思いますが、どの辺りの区間をサンプルにしたか、分かりません。そして緯度一度を27里として地図を描いたと日記に出ています。

更新日: 2010年4月15日

Q02 忠敬の1歩の幅は何cmですか?

 伊能忠敬記念館元館長の佐久間達夫氏は同館所蔵の「雑録」中に「1町に158歩」という記述があるのを発見され、それを忠敬の歩測データと認めて、歩幅69cmとしています。
 これは間接的な「証拠」ですが、忠敬自身が「自分の1歩は○○」と具体的に書いたものは発見されていません。なお、井上ひさし氏は『四千万歩の男』のなかで、歩幅を「2歩で1間」としていますが、いくら何でも一歩90cmは大き過ぎると思いますが?

 忠敬自身の記述はこれまで、見つかっていません。ただ、師匠の高橋至時が同僚の間重富(大坂)と交換した書状集「星学手簡」の中の、高橋の書状で「200歩を大図一分に表現した」という記述があります。師匠の言葉ですから、事実だと思いますが、これから逆算すると、忠敬の歩幅は66cmくらいになります。佐久間氏の推測値と3cm違いです。多分66~69cmということかと思います。

 ただ、至時の記述が事実とすると、55歳の忠敬が一人で、往復3,200Km、歩数を数えたことになります。そんなことは信じられるでしょうか。20歳くらいの若者を数名連れているのです。恐らく、若者にも交代でやらせたと考える方が自然です。若者の分は忠敬の歩数に換算したということになります。

 69cm幅で実際に歩いて見ると、大股すぎます。66cmの方が可能性が高いでしょう。彼の身長は160センチくらいと佐久間氏は推測しています。井上ひさし氏の話は小説です。なんら根拠にはならないでしょう。ただ、次項の黒江町・浅草測量図の中に、○○間 1/3とか、2/3 という距離が出てきます。もし、3歩で一間というやり方があったとしたら、かなり事実に近づきます。

 なお、距離を歩測で測ったのは第1次測量だけです。第2次以降では方法を大改善して、間縄を張っています。彼自身、日記のなかで、第1次は歩測なので、真正な図とは言い難いといっています。

 まして歩測で全国を測ったなどという話は笑い話です。歩測は主要な測量手段ではありません。第1次の地域も後に、緯度1度の南北距離を28.2里と修正していますから、補正されました。

更新日: 2010年4月18日

Q03 忠敬が隠居したとき、財産はどのくらいでしたか?

 伊能家の資産について、渡辺さんの本では「忠敬隠居のころの資産は45億円ぐらいではないか」とありますが、井上ひさしさんの本では「少なく見積もって70億円ぐらい」としていますが?

 伊能家の事績を記した金鏡類録(伊能景敬編)という書物のなかに、村人の噂として「家産3万両」という数字が出てきます。これを一両15万円相当と考えて45億円としたそうです。井上さんの本は小説です。根拠は分かりません。

更新日: 2010年4月18日

Q04 忠敬の呼び名は?

 伊能忠敬いのう ただたかのことを、「いのう ちゅうけい」と呼ぶ人がいますが、どちらが正しいのですか?

 正しくは「いのう ただたか」です。
 しかし「ただたか」という名は発音し辛いので、事業家として活躍された佐原の町では、現在「ちゅうけい」さん、と呼ばれることが多いようです。伊能家では自家の先祖ですので「ちゅうけい先生」と呼ぶそうです。

 私も、講演などのときは、お断りしてから「ちゅけい」と呼んでいます。云わば、現代における忠敬の通称のようなものです。

 では、忠敬が活躍した時代に、何と呼ばれたのでしょうか。多分、忠敬という名前は使われなかったと思います。現役のときは、屋号である三郎右衛門さんと呼ばれたでしょう。隠居後は隠居名の勘解由かげゆが使われました。測量関係の記録にはよく出てきます。

 それではどんなとき、忠敬(ただたか)と呼ばれたのでしょうか。正式な名乗りですから、領主からの辞令を貰うときくらいしか使われなかったのではないかと思われます。「伊能三郎右衛門忠敬」これが正しい名前となります。

 明治以降は伊能忠敬と本名で呼ばれ、面倒なので、「ちゅうけい」さんが、はやったのでしょう。なお、各地からの手紙にはしばしば「伊能勘解由様」という宛名が使われています。

更新日: 2010年4月18日

Q05 緯度1度の距離28.2里はどのように求めたのでしょうか?

 第2次測量で、忠敬が緯度 1度=28.2里 としたのはどのあたりの緯度でしょう、緯度の位置によってその距離が違うことには気付かず、各緯度の距離を平均して28.2里としたのでしょうか?

 忠敬が残した史料のうちの「雑録」(伊能忠敬記念館蔵)に根拠があります。東北地方で、比較的信頼できる測定値の部分数箇所を選んで、さらに若干の加減算を施し、平均をとっています。地球が扁平楕円体であることは承知していましたが(師匠が著述したラランデ暦書管見を筆写しており、その中に地球の扁平について記述があります)、球として扱っています。
 多分知っていても、数学的に処理するまでの知識がなかったのでしょう。

更新日: 2010年4月18日

Q06 イギリス海軍は、なぜ伊能図を持っているのでしょうか?

 英国海軍水路部は伊能小図写本3枚揃いを所蔵し、国立海事博物館(National Maritime Museum)が保管していますが、この地図は幕末に日本近海を測量にきたイギリス測量船隊に、幕府から提供されたものです。

 イギリスの測量船隊は、ワード中佐を司令とし、測量艦アクテオンを旗艦として、測量用砲艦(Gung Boat)3隻を従えていました。日本沿岸を測量することになった1861年は、東禅寺事件が起こった年であり、攘夷の嵐が吹き荒れていました。
 幕府はトラブルの発生を心配し、外国奉行下役、軍艦方、通訳などを各艦に分乗させ、日の丸の旗を掲揚させるとともに、上陸する際は乗り組み役人が立会いました。乗組あるいは立ち会っていても、周囲の地形を尋ねられた場合、回答ができなかったようです。それで、使いを出して幕府に伊能図の借り出しを要請しました。幕府は1日も早く測量を終って引き揚げてほしいので、すぐ了解して伊能小図を貸しあたえます。
 注)測量船隊は館山湾を基地に活動していた。

 この図を司令のワード中佐が見てすぐ、みずから横浜に出かけ、公使のオルコックに幕府から伊能図を譲り受ける交渉を依頼します。幕府は貸し出している伊能小図を与えてもいいと指示して引き渡されました。船上では両者仲良く伊能小図を利用したようです。

 そして測量しないで引き揚げたという話が語られますが、それは違います。東京湾周辺とか、瀬戸内海では、伊能図にない水深が丁寧に測られています。商船が通行する場合の航路の確認は行われました。沿岸測量については、日本を周回する時間的余裕が無く、廻れなかった部分は伊能図を利用したというのが実情です。

 その伊能図が英国に持ち帰られ、1863年になって伊能図をもとに日本近海の海図2347号が改訂されました。この伊能図は、今でも海軍水路部の学芸員が管理しており、申請すれば見ることができます。ロンドン大空襲など約150年の荒波を乗り越えて保存されていることに敬服しています。

 日本海軍では、兵学校に戦前に伊能小図が寄贈された記録がありますが、研究会元会員の谷村氏(元海上保安大学校教授)の徹底した探索でも発見できませんでした。横山大観の絵とか、東郷元帥の書は敗戦時に厳島神社に一時奉納するなど、保存対策がとられたようですが、伊能小図はそういう対象では無かったのかも知れません。

 なお、渡辺の調査では、英国の伊能小図は伊能隊の制作ではない江戸時代の写しです。幕府内部でも写しが作られ使われていたということです。

更新日: 2010年5月24日

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