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小・中学生の勉強部屋

伊能忠敬と伊能図について、一歩づつ勉強をはじめよう。何処から読んでもいいんだよ。


6年生の社会の教科書

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伊能忠敬の地図を学ぶヒントを教えよう!

  大事なことはこのヒントを参考にして、自分で調べることだよ。だから、答えは教えないよ。

1.先ず、右上の「版画で印刷されて売られていた江戸時代の地図」は今の日本地図とはぜんぜん違う形だよね。どうしてだと思う?

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←この「伊能忠敬以前の地図」だって、なんだか全体的にずさんな地図だよね。

ヒント:今の日本は国としては一つだよね。ところが江戸時代はお城を持っているお殿様が国王だったんだよ。だから、日本には国がお城の数だけあったのさ。この事が原因で形がちがうんだよ。おまけのヒントはその事によって「統一したXX」で測量できなかったってことさ。

 

2.忠敬の地図は、山の形が絵でかかれていて、今の地図と少し違うねぇ!どうしてかなあ?

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ヒント:忠敬が測量したのは海辺と東海道とか中山道というおもな街道だけだったんだ。つまり、としての測量であってとしての測量をしていないいんだね。そうすると、どうしても“差”が大きくなってしまうんだ。その誤差を極力少なくするために“”を使ったんだよ。では、その山をどう使ったのでしょうか?

 

3.忠敬の地図の形は今の日本地図の形と殆ど同じだね。どうして?

ヒント:疑問1の原因が除去できたことがひとつ目の理由だけど、除去できたその原因は“御用旗” がヒントだよ。また、疑問2で誤差を少なくできたからだよ。

4.どんな方法で測量したのかなあ?

ヒント:このページの右上に検索キーをいれるボックスがあるね!そこに“測量方法”ってインプットして検索してごらん。伊能忠敬の測量方法をしらべられるよ。

5.伊能忠敬って、測量方法を何歳ころからどのようにして学んだのだろうか?

ヒント:↓以下の説明がヒントになるよ。きっと!


歩測教室

歩測教室

歩測教室(1)

1.歩測とは

AからBまでの距離を測るとき、歩数を数えながら歩いてみて、歩数と一歩の歩幅を掛け合わせて距離を知る方法が歩測だ。例えば電柱AからBへ向かって歩いて200歩だったとする。君の一歩の歩幅が60cmだったら、0.6m×200歩=120mが答えである。

2.歩幅を知るには

歩測を知るには、まず君の歩幅を知らなければならない。歩幅を知るには、校庭に100mの線を引き、この線に沿って普通の歩幅で歩いて歩数を数えるとよい。往復歩いて平均をとる。平均150歩とすると、100m÷150歩=66.7cm が君の歩幅だ。

3.歩数を数えるには

歩数を数えるのはやさしいようで難しい。途中で他のことを考えて、数を忘れるのだ。いい方法を教えよう。歩き始めるとき、左側から第一歩を出すと思うが、次に右側を出したとき、「イチ」と数えるのだ。つまり、右足だけ数えて、最後に2倍すれば、数える回数は半分になるわけ。最後が左足で終ったら、右足の歩数×2+1歩とすればよい。2歩ごとに数える歩数を複歩というのだ。

4.100歩ごとに指をおる

百台の数は数えにくい。そこで、百歩ごとに、右か左の指を折ってゆけばよい。数えるのは何時も百までとすれば間違いが減る。両手を使えば千複歩まで、全部折った指を戻せば二千複歩歩まで数えられる。一歩単位だと4000歩で60cmにして2.4kmとなる。途中、区切りのよい部分で、メモに筆記しよう。

5.碁石を使う

指を折るだけではあぶないなら、碁石とか1円玉を10個右のポケットに用意して、百複歩ごとに左のポケットに移すのもいいだろう。伊能測量隊は第一次測量では距離を歩測で測っている。東京の千住宿から朱の測量線が延びている釧路までは、往復3200キロあるんだ。辛抱強さに驚かないでね。記録にはないが、何等かの工夫をしていたことは確かだと思う。

もっとも、歩測は簡単だが、精度が低いので、伊能隊は第二次測量からは、測量用の目盛りのついた縄(間縄)を使い、歩測はやめている。歩測教室は続くよ。

 

歩測教室(2)

6.同じ歩幅で歩けるようになるには

歩測でいい成績をうるには、いつも同じ歩幅で歩けなければ無理だ。それは修練により上達することができる。やり方を教えよう。通学路の途中に直線の場所を探す。距離はわからなくてもいいから、目標をきめよう。電柱AからBまでとか、コンビニの角から次の交差点の歩道のはずれまでとか、動かない目標をきめる。ただし坂道はだめだ。平地を選ぶ。

7.往路と復路の歩数が一致するよう練習する

そして選んだ2地点間を、自然体で歩数を数えながら歩く。往路と帰路で同じ歩数になることを目標にしよう。若い君らなら、毎日やっていれば、数日で歩き方のコツがわかってくる。

距離は100mは欲しいな。それから行きと帰りの違いは1歩(単歩。複歩でないよ)以内になるまで練習してほしい。何回やっても1歩以内なら伊能忠敬と同じクラスだ。

8.歩幅に自信がついたら自分の歩幅を確認しておこう

100mを1歩以内の違いで歩けるなら、正確な100mの場所を探して、歩いて歩数を決め、100mを歩数で割って自分の歩幅を確認しておこう。100mくらいの場所は、歩道の敷石1枚の大きさを求めて、必要なだけ数えて目標を決めるとよい。

9.敷石の大きさはどう測る

5・6個分の距離を巻尺で測って、個数で割ってⅠ個の距離とする。敷石には隙間があるので、隙間を含めた1個当たりの距離を決めるためである。

10. 歩数の半端をどうする

歩幅を決めるための歩数はできるだけ詳しく数える。1歩未満の歩幅は20%単位くらいで読み取ってほしい。100mにつき1歩が問題なのだから、0.2歩とか0.6歩をいい加減にしてはいけない。


伊能忠敬はこんな人だった

伊能忠敬

6年生の社会科の本に

実際に日本全国の沿岸と主要な街道を歩いて測量し

日本で初めて厳密な日本地図を作った男

として登場する伊能忠敬のことを紹介しよう。

右端にある肖像画がその伊能忠敬だよ。

(肖像画をクリックすると「夢追い人」という題名の劇画で伊能忠敬を知ることもできるよ)

伊能忠敬の読み方は「いのうただたか」というのが正しいのだが、発音しにくいので、「いのうちゅうけい」と発音する人も多い。

彼が商人として活躍した佐原(千葉県香取市)では、親しみを込めて「ちゅうけいさん」といっており、伊能家の子孫の方々も「ちゅうけい先生」といっているから、ちゅうけいさんで、少しもおかしくはない。

もっとも、「ちゅうけいさん」が生きていたとき、忠敬(ただたか)さんと言われていたかどうかは疑わしい。多分、屋号(やごう)の三郎右衛門さんとよばれていただろう。佐原には伊能の姓は多くて、沢山おいでになるが、忠敬の家系は伊能三郎右衛門家といって、代々三郎右衛門または源六という屋号を世代交代して使ってきた。

 
伊能忠敬

隠居して江戸に出てから測量を始めるのだが、隠居後は勘解由(かげゆ)と称した。これはよく使われたらしい。手紙や上司との会話で使われた。測量を始めてからは、隊員からは先生といわれ、外部からはお役人さま、伊能さま、と言われたようだ。

あだ名も残っていて、江戸に出て天文の勉強時代に、あまり熱心に観測と計算をするので、先生の高橋至時(よしとき)から推歩(すいほ)先生と呼ばれていたという。推歩とは天文の観測と計算を意味する言葉で、天文観測屋さんというような意味でしょう。

忠敬の生い立ち

忠敬は、今から265年前の1745(延享2)年1月11日、上総国九十九里浜のほぼ中央の小関(こぜき)村(現在は九十九里町)の名主・小関五郎左衛門家(こぜきごろうざえもんけ)の小関貞恒(さだつね)の3番目の子として誕生した。幼名は三治郎(さんじろう)、兄と姉がいた。つまり2男だった。

この頃の日本は徳川幕府が国を統治していた江戸時代だったんだよ。みんな知っているかな?あの暴れん坊将軍“徳川吉宗”がまだ生きていたんだよ。

忠敬が6歳(年令は満年令です)になったときお母さんが病没してしまった。記録はないが、多分流行り病か何かの急死だったろう。すると、今考えると不思議なことだが、お婿さんだったお父さんは小関家を離縁されてしまい、実家である約15キロ北の小堤(おんずみ)村の名主・神保家に帰されてしまった。

お父さんはお兄さんとお姉さんだけを連れて神保家に帰り、幼い三治郎はひとり小関家にのこされててしまった。なぜなのかは良くわからないが、お父さんは実家に帰って生活を立て直さなければならないので幼い三治郎の教育には手が廻らないと考えたのではなかろうか。当時の実学だった読み、書き、算盤(算数)をしっかり仕込んでもらうために残されたのだろう。

三治郎は寂しかったろうね。お父さんの代わりに小関家を継いだ叔父さんも、あまり暖かくなかったかも知れない。この小関家はひろい田畑ももつ名主でもあった。そのような家庭で幼い三治郎がどんなこどもだったかの記録は全く残っていないのだ。忠敬に関して書かれている書物の中でのことはだから全部推測で書かれているんだ。網元だったと言われるが証拠は残っていない。そんな推測で書かれたものの中に次のような話が載っている。

 
伊能忠敬少年時代

三治郎は一人ぼっちになってからは海岸近くの漁師小屋の留守番をやっていたそうです。留守番の仕事は漁師が使った網や樽などをしまったり運び出したりする際、その数を記録して管理したりすることでした。だから、物覚えや勘定ができないとできません。でも三治郎はそういうことが出来るほど賢いこどもだった・・・とその書物には書いてあります。

でも、この話は推測だからきをつけなくはいけない。だからこの頃の三治郎の事はそんな本を読むより君等自身で考えてみたほうがいいだろう。

(なお、このころ三治郎がどんなこどもだったかの記録はないけど、佐原時代以降の事は膨大な記録が残っています。そういう記録は事実だか大いに勉強するといい)

 

10歳代のころ

伊能忠敬

10歳になったとき、待ちに待ったお父さんが迎えにきて、17歳までをお父さんのもとで過ごした。といっても、お父さんの家の手伝いというより、二男だった忠敬は、将来身を立てる道を探して、学問や社会経験を積む努力を続けていた。

この間、寺に住み込んでお勤めの傍ら、和尚から和算を習ったり、親戚の学者から儒学を習う。土浦の医者宅に住み込んで医術の修行も試みている。


←お父さんの実家(いまでも子孫の方が健在だよ)の前の碑


お父さん実家も、九十九里の小関家も名主だったので、親戚のネットワークは房総一円に広がっており、いろいろなところから紹介してもらうことが出来た。


父はこの頃には実家の近くに分家していたが、忠敬は二男なので、父の勧めで医者、僧侶、学者など、生きる道を真剣に探していた。継母がいたので家にいずらくて、親戚の間を流寓していたなどと書いてある書物があるが、とんでもない。彼は真剣だったのだ。

幕府役人が家に泊まって計算をしているのを見て、すぐ理解したとか、世話になっている親戚の平山季忠の代理で土木工事の指図をさせたら、人使いがなかなか上手かったと伝えられている。気のきいた、目はしの効く若者に育ったことは間違いない。

 

● 休憩室

やあ~。良い子のお友達のみんな!これから“伊能のおじいちゃん”と一緒に日本列島を歩いてみようか。

この“すごろく”の画像をクリックすると、鮮明で拡大できる“すごろく”の画像を表示できるから、サイコロを振って日本列島を踏破してみると面白いよ~!

  • ふりだしは伊能忠敬が生まれた「九十九里」だよ
  • ・あがりは伊能忠敬がしんだ「江戸(現在の東京)」だよ
すごろく

佐原の伊能家から婿養子の声がかかる

伊能忠敬

17歳になったとき、縁あって、佐原の伊能三郎衛門家からお婿さんにこないか、との声がかかってきた。親戚の平山家の紹介だった。奉公先の医者の家に使いが来て、すぐ戻れといわれる。


話を聞くと、相手は4歳年上で、死別した前の夫との間に、子供もあるという。忠敬も迷ったろう。しかし、伊能家婿入りすることを決断した。医者、学者、僧侶のほかに、婿養子という道もあったのだ。

平山家の仮養子となり、同家の紹介で林大学頭に入門し、忠敬と名を付けてもらって、平山忠敬として佐原の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿した。


←佐原にある伊能忠敬旧宅


家業に精出して家運を隆盛に導き、名主としても頑張って、天明の大飢饉に佐原からは一名の餓死者も出さなかった。49歳で隠居したときは家産三万両だったという。

 

天文暦学から測量へ

49歳で隠居すると、江戸に出て新進の天文学者高橋至時の下に弟子入りして、暦の勉強を始める。学ぶこと数年、暦学上の必要から日本列島の実測に転じ測量を始めることになった。このあとのことは、夫々の専門項目を参照してください。

↓東京深川黒江町にある伊能忠敬隠居宅跡碑

↓東京深川八幡宮境内にある伊能忠敬銅像

↓伊能忠敬測量隊が描いた地図

伊能忠敬と伊能図入門画像

伊能忠敬と伊能図入門へリンク

復元された伊能図

PDFファイル(*.pdf)山陰中央日報(2010.5.26,6.2,6.9)に掲載された伊能忠敬研究会名誉代表 渡辺一郎さんの記事です。

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