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伊能忠敬はどんな人か(忠敬略伝)

  • 忠敬略伝
  • 伊能測量のキッカケから終了まで

●忠敬略伝

忠敬 肖像

伊能忠敬は、下総(千葉県)の佐原で、事業家として成功したあと49歳で隠居し、50歳のとき江戸に出て、天文・暦学を修める。きっかけをつかんで地図作りを始め、

  • シニア世代の17年をかけて日本全土を測量し、
  • 初めての実測による日本全図を作成

という壮挙を成し遂げた。

隠居後、在職中を遥かに上回る大仕事を達成したことが、いまの世の中の関心をよんで、静かなブームとなっている。

(年譜はここをクリック)

 

居住した処

忠敬の居住地区
  • 九十九里町小関  出生の地
  • 横芝光町小堤   成長の処
  • 香取市佐原    事業家として活躍していた処
  • 深川黒江町    晩学を楽しんでいた処

(人物・総記はここをクリック)

 

出生~少年時代

出生~少年時代

忠敬は、1745(延享二)年1月11日、上総国九十九里浜のほぼ中央の小関(こぜき)村(現在は九十九里町)の名主・小関五郎左衛門家の小関貞恒の第三子として誕生した。幼名は三治郎、兄と姉がいた。6歳(年令は満年令)になったとき母が病没する。

この地方は長子相続制で、姉家督といって、女でも長子が家督を継ぐ習慣があった。母は長子だったので、約15キロ北の小堤(おんずみ)村の名主・神保家から父を婿に迎えていた。母が死亡すると、父は離縁になり実家に帰った。姉家督は女が死亡すると、婿は実家に帰るのがしきたりだったという。

父は兄と姉だけを連れて帰り、幼い三治郎はなぜか、ひとり小関家にのこされた。しっかり読み、書き、算盤を教えるために残されたのだろう。

 

成長:十代の頃

成長:十代の頃

10歳になったとき父が迎えにきて、17歳までを父のもとで過ごす。この間、常陸の某寺に住み込んで和尚から和算を習ったとか、土浦の医者宅に住み込んで医術や四書五経を習ったといわれている。

父はこの頃には分家していたが、忠敬は二男である。継ぐべき家がない者にとっては、医者、僧侶、学者などしか身を立てる道がなかった時代である。父の勧めで生きる道を真剣に探していたというべきであろう。

幕府役人が家に泊まって計算をしているのを見て、すぐ理解したとか、世話になっている親戚の平山季忠の代理で土木工事の指図をさせたら、人使いがなかなか上手かったと伝えられている。気のきいた、目はしの効く若者だったことは間違いない。

 

事業家時代

事業家時代

17歳になったとき、縁あって、親戚の平山家の養子となり、林大学頭から忠敬と名を付けてもらって、佐原の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿し、四歳年上のミチと結婚する。

家業に出精して家運を隆盛に導き、名主としても頑張って、天明の大飢饉に佐原からは一名の餓死者も出さなかった。49歳で隠居したときは家産三万両だったという。

 

晩学時代

事業家時代

50歳のとき江戸に出て、深川黒江町に隠宅を構え、寛政の改暦のため、大阪城番玉造組の同心から旗本の天文方に抜擢された新進の天文学者・高橋至時に入門する。

天文・暦学を勉強するとともに、自宅に天文方に匹敵する規模の観測所を設けて、太陽や恒星の高度などを熱心に観測し、推歩という天体運行の計算に熱中した。

時間をきめて観測するため、外出を好まず、雨でも降らないとゆっくり話すこともできなかったらしい。あまり熱心なので、師匠の高橋至時は忠敬に推歩先生という「あだな」をつけたという。

勉強中に、至時が日食、月食の正確な予測のため、地球の大きさを知りたがっていることがわかる。浅草の暦局と隠宅の間に緯度一分半の差があることはわかっていたから、忠敬はさっそく、深川―暦局間を歩測して緯度一分の距離を求めて提出したらしい。

そのときの測量図が世田谷の伊能家に現存していた。(左図:現在は伊能忠敬記念館に寄贈済)師匠は「深川―暦局間では近かすぎるが、蝦夷地くらいまで測っ たら信頼できる値になるだろう」というようなことを述べたのであろう。幕府に蝦夷地測量の申請書を提出することになった。

 

《日本全国の測量時代》

日本全国の測量時代

曲折があったが、第一次の蝦夷地測量がはじめられる。根室の近くのニシベツまで往復3200キロを180日かけて歩測し、途中81ヶ所で天体観測をおこなった。あきれるばかりの根気よさである。

蝦夷地の実測図は大変高く評価された。現在図と較べても経度を修正すれば、地形はぴったりと重なる。第二次測量では測量方法を改善し間縄を使って、本州東海岸の測量を始める。ついで、第三次測量では出羽から日本海沿岸、第四次測量では東海道・北陸道沿海、と測量が続けられ、文化元年には東日本の図が完成した。

八月に老中・若年寄の閲覧に供し、九月、第11代将軍・徳川家斉の上覧をうける。ここまでは幕府が補助金を出した忠敬の個人事業であったが、このあと、忠敬は微禄だが幕臣(45俵くらい)に登用され、幕府測量隊として下役・内弟子など多数の部下をつれて、老中の御証文を持って西国の海岸と主要街道を丁寧に測量した。伊能隊の全測量日数の約八割は幕府事業として遂行された。

文政元年4月13日(陽暦1818年5月17日)忠敬は、移っていた八丁堀の地図御用所(自宅)で73歳の生涯を閉じた。地図は未完だったので、喪を秘して下役、門人の手で作業が継続される。幕府に提出されたのは、死後3年余の文政4年(1821年)7月10日であった。正式な名称を大日本沿海輿地全図という。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなっている。

 

●伊能測量のキッカケから終了まで

忠敬は三人目の妻・お信の父で仙台藩の上級藩医・桑原隆朝とは「ウマ」があった。お信亡き後も親密な付き合いが続いていた。証拠となる史料はないのだが、状況から考えると高橋至時への入門を世話したのは桑原隆朝だった可能性が高い。

寛政の改暦のために、高橋が大阪から下ってくるという極秘情報を桑原隆朝から聞いて、忠敬は「これだ」と思ったのではないか。天文・暦学は好きな道であるし、早速押しかけて入門する。難しい理論を習ったり、天文方なみの観測機械を自宅に据え付けて太陽や星を測った。

勉強しているうちに、高橋至時が地球の大きさを知りたがっていることが分かる。 いつも観測していて、深川の自宅と蔵前の天文方の緯度差は一分半と知っていたから、「両地点の子午線上の距離がわかれば、地球の大きさは計算できる」そう思いつくと、すぐ実行にとりかかった。

試測のデータは師匠に相手にされなかったが、蝦夷地までも測ったら使えるデータが得られるかも知れないといわれ、蝦夷地まで地上の距離と星の高度とを測る決意をする。第一次測量である。実現には桑庫隆朝の側面工作の力が大きかった。測量の実務については、高橋至時が細かい注意をあたえた。彼は忠敬を全面的には信頼できなかったようだ。

忠敬ら一行6名(55歳の忠敬内弟子の門倉隼太<高橋至時の従者>平山宗平<忠敬の婿入り時の仮親家の孫>伊能秀蔵<忠敬の二男>下僕の吉助長助)の測量隊は、蝦夷地が寒くならないうちにと、急ぎに急いで蝦夷地の根室の近くのニシベッまで往復3200キロを180日かかって歩測した。

昼は交代で歩数を数え、曲がり角では方位を測る。夜は宿舎の庭に象限儀を据え付けて星の高度を測った。蝦夷地測量の成果は小図1枚、大図21枚に描いて提出された。この結果を高橋至時はみて、予想外の頑張りに感動し、よくできたと激賞した。

費用は節約して約百両かかったが、お手当は22両だった。器具の準備に70両かかったから、初めての測量の自費負担は、約150両弱。今のお金で3000万円位だろう。

実績が認められ翌1801年には、当時幕府がいちばん知りたかった伊豆半島、房総半島から三陸、下北半島まで測って、日本東海岸の図を作るように命じられる。

手当は少し上がっただけだったが、二回目からは、幕府勘定奉行から先触れが出されたので、地元の協力が得易くなった。緯度一度を28.2里と算定したが高橋至時は信じなかった。しかし、本州東岸の地図は評価され、幕府は忠敬に東日本全体の地図を作らせようと考える。

第三回目は、日本海側の出羽・越後の海岸を測る。忠敬は緯度一度の距離を測って学問的業績を残そうと思っていたのだが、地図が評価され地図作りに傾き始める。彼にとっては、隠居後の事績として残せれば、地図作りでもよかったのではないか。これまで測量旅行と荷物運搬の人馬には費用を払っていたが、今回から幕府の公用扱いとなり、多くの人馬を無料で使えるようになる。

第四回の測量は、東海道から北陸道の沿岸を同じように測量した,測量開始してから5年目の1804年に、第一次から第四次までの測量結果を、日本東半部沿海地図(略称沿海地図)にまとめて提出した。小図1枚、中図3枚、大図69枚だった。

正確さと美観に、大いに気をつかい、美しく仕上げた。狙いどおり幕閣で好評を博した。面目を施した忠敬は、沿海地図の完成で、地図作りをやめるつもりだったのではないか。

ところが、幕府の老中・若年寄らは、地図の出来映えに満足し、日本全国の地図を同様に作らせる気になる。西国諸大名に日本全土の実測という目的を理解させるのは大変だったと思われるが、幕府は伊能図を文化元年九月、第11代将軍・徳川家斉の上覧に供する。将軍はもちろん感心して賞賛したであろう。

「将軍、佐原の商人・伊能忠敬の日本図を閲覧」の話は風のごとく諸藩に広がった。忠敬は幕臣に召し出され(小普請組)、10人扶持(約40俵)を支給される。測量隊長として約3年をかけで西国一円を測量するよう、老中から指示が出された。

10数名の大部隊による幕府直轄測量は初めは三年でと考えていたが、西日本は海岸線が複雑なこと、幕府事業になって丁寧に測られたことから大幅に進捗が遅れる。結果的に、このあと11年かかってしまう。測量日数では幕府事業80%、個人事業20%であった,

測量旅行の回数は、10回におよんだが、忠敬は第9次の伊豆七島測量を除いて全測量に従事した。測量距離は約4万キロ、忠敬自身の旅行距離は3・5万キロに達した。すべての測量をおわり、弟子の問宮林蔵が担当した蝦夷地の測量デー夕を受けとったのち、文政元(1818)年4月23日に地図御用所であった八丁堀の自宅で没する。享年73歳。

地図御用所では、忠敬の死を秘して地図製作の作業が続けられ、三年余り後の文政4年に完成する。上司の高橋景保は、忠敬の孫・忠誨と下役一同をともなって登城し、老中・若年寄の前に地図を提出し閲覧に供した。最終提出の伊能図の名称を「大日本沿海輿地全図」という。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなる。その後9月4日に至って忠敬の喪を発した。

 

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