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全新着情報一覧

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2019年8月5日伊能忠敬記念館 第95回収蔵品展

伊能忠敬記念館では、国宝の展示替えがありました。
※詳しくは 伊能図閲覧室 を御覧ください。

2019年6月17日富士山の方位測量(本土最南端)於三重 志摩 国府海岸

 今は214年前の昔、1805年6月17日(文化二年五月二十日)、伊能忠敬を隊長とする伊能忠敬測量隊は、朝六ッ頃、三重県志摩市阿児町国府の海岸に出て富士山の方位を測った。結果は「丑二五分五〇秒~丑二六分 55.5度)だった。
 写真は17日の朝、同じ場所から協力者が撮影したもの。ここからの富士山の方位測量は、伊能測量において本土最南遠端であった。富士山までは約204km の距離です。

 このような様々の地点から直接的に見通せるランドマークに対する方位や、宿泊地から恒星の高度を測り緯度を決定し、正確な地図が制作できました。

2018年8月18日伊能忠敬没後200年記念新聞特集記事

 毎日新聞、高知新聞で毎月1回、特集記事が掲載されています。

没後200年・伊能忠敬を歩く(毎日)
 5月から毎月記念特集が掲載されています。

伊能図を巡る-土佐の村々 今昔(高知)
 5月から毎月記念特集が掲載されています。高知新聞は記者がロードサイクル(初心者)で測量隊のルートを辿りながら取材しています。

2018年5月20日新たな銅像が香取市に!

 伊能忠敬が隠居するまで家業で活躍した香取市の伊能忠敬翁没後200年記念事業の一貫として、香取市の佐原駅前ロータリーに伊能忠敬翁銅像が新たに建立され本日 除幕されました。


2018年4月28日蝦夷上陸地点に伊能忠敬の銅像が除幕

 伊能忠敬が蝦夷地に上陸した地点(北海道松前郡福島町吉岡「伊能忠敬北海道測量開始記念公園(吉岡漁港入口)」)に、平成30年4月27日に伊能忠敬の銅像が除幕されました。



2017年11月1日デジタルスタンプラリー「伊能でGo」公開

 発表から10ヶ月経過いたしました。ようやくアップルストアの審査を通過し、公開することができました。
 本日からiPhone等のiOS端末用アプリはAppストアから、Android端末用アプリはPlayストアからそれぞれ無償でインストールできます。
「伊能でGo」はスマホとwebサーバを連携した、新しいスタンプラリーです。どのようなプレイであるかは伊能でGoをごらんください。

2016年7月3日伊能忠敬 北海道測量記念碑 建設基金 寄付金募集開始

 伊能忠敬が江戸時代に日本地図を作成するため全国の測量を行った際、測量隊の第一次蝦夷地測量が、実質的には北海道松前郡福島町吉岡からスタートしております。
 北海道松前郡福島町では、この歴史的偉業を後世に伝えるため伊能忠敬北海道測量記念碑を建設することになりました。
 そのため、「福島町伊能忠敬北海道測量記念碑建設基金」を創設して、没後200年となる平成30年に記念碑を建立することを目指し、全国の賛同者からの寄付金の募集を開始致しました。(マスコミでも報道済み)
 当「伊能忠敬e史料館」サイトに御寄り頂いたことは、伊能忠敬先生の偉業が導いてくれたものと信じます。その偉業を後世に語り伝えるシンボルとなるに違いない記念碑の建立を、皆様の浄財で確かなものにしていた抱ければとお願いする次第です。 

福島町伊能忠敬北海道測量記念碑建設基金をご覧下さい。

2016年6月22日1次測量蝦夷地上陸地点に伊能忠敬の銅像建立が地元の町議会で条例制定

 伊能忠敬の蝦夷地測量は、当初の計画では三厩から箱館に上陸する予定あったが、東風(ヤマセ風)に阻まれて、9日間も足止めとなった。
 その後、漸く三厩を出港したにも関わらず海上でまたまた風に翻弄され、やむなく松前領吉岡(現北海道福島町)に着岸できた(寛政12年5月19日<西暦1800.7.10>)。
 北海道松前郡福島町の町議会は、このことを重く受け止め、伊能忠敬没後200年に当たる2018年、忠敬の銅像を建立することとし「町伊能忠敬北海道測量記念碑建設基金条例案」を6月21日に可決。
 基金は趣旨に賛同する全国各地の人から寄付金を募るとのこと。

2016年6月9日歴博でシーボルト日本図の原図発見の記事について

2016年6月8日読売新聞夕刊に、歴史民族博物館の青山教授らが、ブランデンシュタインのシーボルト家の史料調査の結果シーボルト作「日本図」の原図と思われる地図を発見した、という記事が掲載されました。青山教授は歴博にあったアメリカ大図の欠図2枚(34号35号)発見のとき共同発表者になっていただいた歴史地理の研究者であります。
私もブランデンシュタインシーボルト家の地図を探索(会報66号に掲載)したことがあるので、想起しながら、懐かしく記事掲載の九州輪郭図を拝見しました。私が撮影できたのは日本東半部だけでしたが、こういうやり方で、分割して何人かで分担すれば、日本特別小図を一晩で写すのも不可能ではないなと感じました。
それにしても、私が紹介した東日本図の房総半島、津軽半島、佐渡島などは形状が悪すぎる。今回の九州図も北部が腑に落ちない。
伊能特別小図に被せて敷き写したとすれば、もっと伊能図に近づいたのではないか。
7月の歴博の展示で疑問が氷解することを期待しています。

なにしろ、シーボルト日本図は大変有名ですが、持ち出されたその原図は発見されていないのです。数多くある伊能忠敬と伊能図に係わる謎のうち、話題としては最大のテーマかと思います。

2016.06.09. 伊能忠敬研究会名誉代表 渡辺一郎

2016年6月9日台命を蒙り蝦夷地に下向

 寛政十二庚申年 閏四月十九日、即ち、今から216年前の西暦1800年6月11日五ッ前(午前8時前)、55歳の伊能忠敬は、建前は蝦夷地の地図を作成でした。しかし本音は地球の大きさを計算するための基礎データである子午線1度の地表の長さを求めるため、江戸深川黒江町の隠宅を出立しました。その時の心境は測量日記の冒頭で「台命を蒙り…」と意気軒高でした。
測量日記冒頭
 一方、その110年前に同じ深川から忠敬より10歳も若い46歳の松尾芭蕉も奥羽行脚に出立しましたが、その心境は忠敬とは異なり、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也…。古人も多く旅に死せるあり。」と、悲壮感漂うものでした。
 これは、理系の忠敬と文系の芭蕉との旅立ちに当たっての立ち位置の違いなのかもしれません。


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