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人物DBご連絡一覧

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66 福岡県小竹町 長崎街道の町筋で江戸時代から酒屋を営み2016年4月29日

8次 測量日記第23巻文化10年10月7日(1813年10月30日)に
「昼休 立場小竹酒屋 兵太郎」と記載の兵太郎の子孫です。

 当主は代々「兵太郎」を名乗っており参勤交代の大名御小休処にもなっておりました …
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【伊能忠敬e史料館】
伊能図の測線によれば、現在の200号線沿いを測量しているようでございます。

ところが、文化10年10月7日の日記では特段測量しておらず
遠賀川を船で下っており、その途中、立場小竹酒屋 兵太郎で昼休みをとったようです。
一方、この近辺の測量は、文化8年2月2日に測量しており、
その際の昼休みも小竹で「又五郎」とされております。

「平太郎」家と「又五郎」家との場所関係はお分かりになりますでしょうか?
 いづれにいたしましても、その節は、伊能測量隊がお世話になりました。忠敬翁に代わりまして、御礼申し上げます。

44 大阪高石神社の案内板2016年4月26日

 私大阪府の高石市という市に在住なのですが、その土地にある高石神社とよばれる神社の案内看板に、伊能忠敬が神社の近隣の筆屋という宿屋にて休息した との記載があります。
 家系図を見たわけではないので、筆屋を営んでいた人が実際の先祖か …
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【伊能忠敬e史料館】
・看板を撮影した画像をお預かりしました。 ・高石神社の案内板を当方で撮影してきました。 ・調べてみましたところ、第5次測量文化2年8月17日 岸和田から堺迄の測量に際しまして、次のように日記に記録されております。 ------- 八月十七日 朝小曇。六ッ後岸和田浦町出立。 後手は我等、高橋、稲生、門谷、(利助、吉平)、同所より助松村蓮正寺分と高石南村境迄測る。 先手は坂部、平山、小坂(
此日より出勤)、伊兵衛、角二、両村界より初堺町迄測る。 後手中食は高石南村なり。

65 宮崎県延岡市北浦町宮野浦 2016年4月24日

宮崎県延岡市北浦町宮野浦
庄屋 太田屋 源太兵衛とありますが、
正しくは、
太田尾 源太兵衛です。

私は、子孫です。

【伊能忠敬e史料館】
測量日記(原文)を調べました結果
 太田屋
  ではなく
 大田尾
でした。

DB登録の間違いでした。
お詫びいたします。

何か、測量に関しまして書付や言い伝えがありましたら
教えてくだささい。

64 伊能忠敬一行が小田原で松熊、祖母の出身は小田原2016年4月18日

 私米国在住の者ですが、先日、朝日新聞の電子版で貴団体の事業を知り、記録に残されている当時の関係者の中に、祖母の家と関係があるのではないかと思い当たる名前がありまして、ご連絡させていただくことにしました。伊能忠敬一行が小田原で松熊という者に …
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【伊能忠敬e史料館】
お尋ねの「松熊和太蔵」に関しましては、
第五次測量(畿内・中国沿海)に置きまして文化2年2月29日大磯から小田原まで伊能忠敬は測量し、
途中、お城から2k程手前の山王原村で浦方支配役の平田領蔵とその手代の松熊和太蔵の出迎えを受けました。
更に、翌2月晦日、忠敬一行は畑宿から箱根まで測りましたが、平田領蔵と松熊和太蔵が付き添ってくれました。

測量日記ではその二人の住所などは書かれておりませんので、これ以上のことは残念ながら分かりません。

63 青森県野辺地 回船問屋 島谷家は母の実家です2016年4月18日

 私の母は青森県野辺地町の出身なのですが、江戸時代に廻船問屋であった母の実家(島谷家)の関係者が作成した資料の中に「1799年 伊能忠敬来泊」という記述がありました。
 その後、周辺関係を分析した結果、第一次測量における野辺地での …
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【伊能忠敬e史料館】
 最上徳内の妻ふでの実家は野辺地の廻船問屋だった島谷家とされています。
 徳内は蝦夷地にも陸奥地方(煙草の行商)にも詳しく、
会田安明、近藤重蔵、大槻玄沢らと親交がありました。
 それらの人脈から、記録には出てきませんが忠敬との交際もあったと推測されます。

 情報、ありがとうございました。

62 岡山県新見市上熊谷大庄屋、戸田専左衛門から7代目の子孫です。2016年4月18日

 文化8年閏2月18日の測量日記に記載されている「松山藩領の下神代」まで伊能忠敬一行を出迎え、藩内の測量に同行して地元の支援者などを手配するなどの支援をしたとされる戸田専左衛門(戸田家7代)の子孫に当たります。
 現在 伊能忠敬が …
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【伊能忠敬e史料館】
詳しい情報、ありがとうございました。

52 文化10年6月14~15日 太之浦、坪井三之助と坪井繁弥の直系の子孫2016年4月2日

私は、長崎県新上五島町太之浦、坪井三之助と坪井繁弥の直系の子孫です。現在は東京武蔵野市に暮らしております。
実は妻は、故安藤由紀子さんの友人で、資料をずっといただいていて、私の生家にかつて伊能忠敬隊が宿泊していたことは知ってお …
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【伊能忠敬e史料館】
奥様が安藤由紀子さんの学友とは奇遇です。安藤さんと伊能陽子さんのご主人が小学校同級というご縁で始まった2人の勉強会に渡辺が参加して、フランスにあった伊能中図の一時里帰り展開催、伊能忠敬研究会の発足と発展してきたのです。
伊能陽子さんにいわせると、あれよあれよ言う間に大きな輪になってしまったということでした。お二人とも有能な方で、3人で伊能ウオークにいくと、陽子さんは、やあ、しばらくねと、たちまち参会者にとけこんで、あちこちで話題をふりまいていました。
安藤さんは、さっきそこにいたかと思ったら、受付のテントの中にはいって、愛想よく皆さんの相手をしている、という具合でした。      合掌。 渡辺

26 文化10年3月10日、佐世保市の山縣三郎太夫はご先祖様2016年4月2日

 偶然、新聞記事から協力者の名前を検索できることを知り、確認してみたところ、益冨又左衛門と山縣三郎太夫の名前を見つけて驚きました
【伊能忠敬e史料館】
測量日記では
「三月十日 昨夜より雨、四ッ後迄降る。此日も北風、壱州渡海ならず。生月島を越て右島測量、其後に壱州へ渡海に決定し、四ッ半頃、大島出立。順風にて生月島へ乗船、八ッ時頃、生月島一部浦へ着。止宿 益冨又左衛門分家畳屋又右衛門、同 三郎兵衛、同 善四郎。此夜小晴直に曇、暫時星測。生月島益冨又左衛門分家二十六軒あり。平戸家中に山県三郎太夫、同 六郎兵衛、県新四郎三家も分家也と、鯨を取を業とす。冨家にて諸国へ聞。」

とあります。生月島内に分家26家、平戸藩内にも3家とは豪族ですね。忠敬さんも、でかい事が大好きな方ですが、ビックリしてこのように丁寧に記したのでしょう。「富家にて諸国に聞ゆ」一言で表現していますね。鯨取りは儲かったと聞いていますが、噂では財産どのくらいといわれていたのでしょうか。
平戸藩は離島が多く測量に百日くらいかかって、6万石ですから、藩も地元も大変だったと思っていましたが、益富家の大船団が協力していたのでしょう。協力模様、日記など見せていただけるとありがたいです。ニュースになるでしょう。       渡辺

30 文化7年10月15日~16日 庄屋「増田利三郎」の子孫2016年4月2日

 本来は益田利三郎。当家には代々天草全図の絵図が保存されており、文化財の指定も受けておりますますが、伊能図との関係は不明です。
 先人たちの偉業の際の「ゆかりの家」であった事実を200年の時を超えて名誉である事とうれしく思い、今回 …
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【伊能忠敬e史料館】
測量日記では、十月十五日 朝六ッ半頃楠浦村出立。朝より雨強不止、測量不成。仍て直に大島子村へ行て止宿。庄屋増(益)田利三郎。とあり、忠敬本隊でなく副隊長坂部が率いた支隊でした。当日は雨が強く作業できなくて直行しています。濡れ雨具の隊員を迎えて宿舎は大変だったでしょう。   渡辺

53 文化11年1月30日、2月1日丹波 小多利村で挨拶にでた治右衛門の子孫2016年4月2日

 先日、パソコン(伊能忠敬e史料館)で小橋家9世 治右衛門の功績を知りました。
 丹波の田舎にも伊能忠敬が足跡を記したとは驚きでした。 
私は小橋家15世です。丹波市春日町中山には9世の墓があり、今も守っています。小橋家 …
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【伊能忠敬e史料館】
この度は、伊能測量を支えていただいた小橋家9世 治右衛門様の御子孫
である旨のご連絡を戴きましてありがとうございました。
第8次(九州第2次)測量の帰途、文化11年1月30日及び2月1日の両日、国料村及び小多利村止宿先に川勝新蔵様(旗本2500石)の家臣としてご挨拶を戴いております。3人も出ていただいたのは大変ご丁寧なことです。


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