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フランスで良質な伊能中図発見
渡辺が1991年5月の日本経済新聞社会面の記事により、フランスに伊能図があることを知り、夫妻で渡仏し現地調査。伊能中図8枚揃いのすばらしい副本を発見した。
●フランス中図確認の秘話
フランス中図の確認
←1995.4.6 朝日新聞 夕刊 ‘気になるこの人’欄 「忠敬のナゾに挑む」
1991年5月、日本経済新聞に掲載された記事をみて、早速、新聞社に電話をかけてみた。あちこち廻されたが、結局ペイレさんの住所はわからなかった。国土地理院にも掛けたが、出張の途中で寄るように話しておいたとか、指示は受けていたが立ち寄れなかったとかいう話だった。
その後、ふとした機会に、古地図ファン グループ ボスの故師橋さんに聞いてみた。すると、‘その話は日本地図センター理事長の金窪氏がよく知っているよ’とのこと。早速 金窪氏に電話してみる。すると、午後すぐ資料一件と所有者ペイレさんのアドレスがFAXで送られてきた。金窪氏も気になっていたらしい。
資料を見て金窪氏を訪問、経緯を聞く。部分的な写真もいただいて、伊能中図らしいということはわかったが、それ以上は不明だった。やはり出かけるしかないな、と英文で手紙を書いてアポを申し込む。
ところが梨(なし)の礫(つぶて)。返事がない。あきらめていたところに、新潟の知らない人からペイレさんの伝言と称して、‘来週ならいいよ’との連絡が入る。これには参った。そんなことは不可能である。とりあえず、学校時代の友人の娘さんがフランス人と結婚してあちらに住んでいることを思い出し、友人からお願いしてもらって、延期の連絡をする。
一方、ペイレさんの伝言をしてくれた新潟の連絡者をたどってペイレさんの状況を確かめる。すると、ペイレさんの三男が都立大学に遺伝子の研究で留学しており、新潟の方の娘さんと結婚したということだった。
それではと、その連絡者の娘さんである泉さん夫婦を八芳園に呼び出し、昼食をご一緒して様子を聞く。息子のジャン・ペイレは日本語がよくわからないので泉さんの通訳で 色々わかってきた。連絡もしていただけることになる。やっとホットラインが開けたわけ。
パリ着。ホテルにペイレさんと娘のマリアンヌさんが迎えに来てくれた。通訳は朝日新聞パリ支局でアルバイトをしていた新井さん。この方は私のマンション管理組合で一緒に役員をしていた朝日新聞の方が、パリ支局長をよく知っているといって紹介していただいた方である。マリアンヌさんは日本にも来たことがあり、金窪氏にもあったという。
地図をみて一瞬息を呑んだ。家内が「これはすごい。本物だね」という。本物の持つ迫力だ、素人の家内が先に声をだした。確かに、針穴(具体的な針穴はここをクリック)が認められ、天体観測をおこなった場所の星印もあって完成度の高い副本だった。全図を開いて内容を確認し、部分的に写真を撮った。
残念ながら九州図の一部に大きな破れがあった。わけを聞くと発見したとき、大した図でないと思い破きかけたのだという。全部広げると日本列島の形になったので、保存しその内容について国内および日本の国土地理院に照会したが、満足する答えはえられなかったという。
これはすばらしい伊能忠敬制作の中図という日本地図だ。機会を考えるから日本における展示を考えて欲しいと提案する。しかし勿論返事はない。声をかけておいて、後から交渉するつもりなので、ここは最初の一声が大切と声をかける。
このやりとりを聞いていた朝日新聞パリ支局アルバイトの新井君は支局長の清水さんに報告したらしい。終わったら支局に寄ってほしいといわれ取材をうけた。記事にして貰う気は全く無かったのだが、挿入画像のような朝日新聞「ひと欄」のパリ発の記事となった。
この記事を伊能家七代目夫人の伊能陽子さんが見て、渡辺に電話がはいり、それから伊能家との付き合いが始まって伊能忠敬研究会に発展したから、今回の静かな伊能忠敬ブームはフランス中図発見から始まったといっていいだろう
(渡辺一郎)
●伊能図の里帰り 決まる
千葉県佐原市の尽力で、佐原中央公民館でのフランス伊能中図展開催が決まる。そこで、朝日新聞東京本社の日曜版編集長になっていた前パリ支局長の清水さんに、「フランスの伊能中図を日本持ってきて展示することになりましたよ」と報告。「えーつ、ホント」という反応があって伊能家七代目宅で伊能図について取材、大きな記事になった。 (渡辺一郎)
1995.11.05 朝日新聞 日曜版人紀行 「世界に散る伊能忠敬の地図追い20年」