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仙台藩医・桑原隆朝は伊能測量のキーマンだった

 伊能忠敬は妻女との縁がうすかった。はじめの妻ミチを漸く家業が安定した39歳のとき失い、あと第6次測量まで行を共にした二男秀蔵の母と暮らす。
秀蔵の母は佐久間達夫氏の調査によると、伊能家の手代をしていた柏木家の娘であるという。法名は妙諦、実名は残っていない。
 妙諦にも44歳のとき先立たれ、お信、お栄と続くから、忠敬の妻は四人だったことになる。もっとも、一人も時間的には重なっていないから御安心願いたい。

 妙諦の死後、縁あって仙台藩の江戸詰め上級藩医400石の桑原隆朝の娘・お信を妻に迎える。どのような縁で忠敬と桑原隆朝が結びついたのかは、記録魔の忠敬も何も書いていないし、資料も残っていないので、全くわからない。400石という高給の藩医は藩邸の外の町屋に住み、名医で他の藩邸からも診察の要望があったという。自然と政界の情報にも通じていたと考えられる。
 忠敬が単に患者として付き合いはじめたのか、友人から紹介されたのかは分からないが、隆朝とはウマがあった。仙台藩医・桑原隆朝こそ、伊能測量を実現させたキーマンといってよいだろう。
 お信を迎えたとき、忠敬は大変よろこび、華やいだ気分になって、佐原の屋敷を江戸風に改造している。知性ある女性だったのだろう。お信と学問をして、余生を楽しもうと考えたのか、領主に隠居を願い出ている。
領主の津田氏は代替わり直後なので許さなかった。
 もっとも故安藤由紀子さんの調査では、お信は出戻りで、子供もあったという。お信を迎えた翌年、有名な家訓を書いて仕事を実質的に息子の景敬に任せている。
 忠敬隠居の年の棚卸し帳によると、桑原隆朝御内方に20両用立てているから、富裕な商人という立場もあったかも知れない。
 お信との楽しい日々は五年ほど続くが、病弱だったらしく、忠敬50歳のとき、江戸で実父に看取られながら亡くなった。
 これよりさき、49歳のとき忠敬は念願の隠居をすることができた。
 50歳のとき江戸に出て、深川の黒江町に隠宅を構え、高橋至時に入門して天文・暦学を学ぶことになるが、大阪から天文・暦学のよい先生が来ることを忠敬に教え、入門の世話をしたのは桑原隆朝だったと思われる。桑原は医者という立場で、若年寄・堀田摂津守と親密であり、忠敬の意向を受けて働きかけ、入門を実現させた可能性が高い。
 戦前の忠敬を書いた本には、忠敬が額を畳にすりつけて頼み込んで、お弟子にしてもらったと書かれたものが多いが、高橋は寛政の改暦を控えて多忙が予想された。弟子をとりたくなかったと考えるほうが自然である。若年寄の口利きが大いに物をいったのではないか。とにかく新進の高橋至時に入門できたことが忠敬の成功の第一歩だった。
 測量の実現についても、第一次測量、第二次測量とも桑原が大変骨を折っている。桑原隆朝こそ、伊能測量の影のキーマンといえる人物である。ところが、桑原関係の書状が、記念館にも、伊能家にも一通もないのである。大変、親密な交際があったのだから、手紙が無い筈はない、とは安藤由紀子さんの意見だが、本当に一通も残っていない。憶測をするならば、幕末の伊能家のだれかが、桑原に大変お世話になっていることを隠すために、廃棄したのではないか、と考えられる不思議な話である。

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