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勘定奉行 中川飛騨守忠英(ただてる)

 忠敬が第四次測量で、北陸の糸魚川を測量したとき、糸魚川一万石の譜代藩の扱いが不行届きだったのに腹を立て、地元の町役人を叱りつけて、藩の役所にも伝えておけ、と戒めた糸魚川事件は伊能測量では有名である。藩の陣屋役人は驚いて、江戸の藩主(糸魚川藩松平家は定府といって参勤交代をしない)に訴えた。「江戸で申し上げるといわれた」というのである。
 これを受けた藩主は勘定奉行に
「いわれた通りに応対しており、文句いわれる筋はない」
と抗議した。その訴状を勘定奉行中川飛騨守は天文方高橋至時に廻わした。善処せよということだったろう。至時は驚いて、忠敬を叱りつける戒告状を送ったことが測量日記に出て来る。
「分からない者がいても、そんな手合いに係わって、もめごとを起こすな。こちらは大事業をやっているのだ。なんとか完成させなければならない。勘定奉行は中川飛騨守だよ。上に廻されたらあなたの身分にかかわるよ。今回は私のところでよかった。気をつけなさい」というような趣旨だった。

 高橋が注目している中川飛騨守がどういう人物か、どのくらいの実力者なのか、伊能を調べ初めたころから気になっていたが、毎日新聞社刊「人事の日本史05.3.30.」のなかで、東大資料編纂所の山本博文教授が、松平定信の能力主義人事の例として説明しているので紹介する。

 中川飛騨守は両番筋(書院番、小姓番)の家柄で家碌は1000石。小普請組の組頭を務めていたのだが、定信人事で目付に抜擢され評判になった人物だったという。小普請組組頭は徒頭くらいまでで、目付に進むのは異例だった。能力ある人物だったらしく、目付から長崎奉行を経て勘定奉行、大目付、御留守居と旗本の出世の頂上まで上り詰めた。

 伊能測量、そのものもにも松平定信のバックアップがあったと思っているが、幕府機構の要路にも定信系の人材がいて支えになっていたというべきであろう。
 国立国会図書館に堀田摂津守旧蔵の文化元年上呈伊能小図副本と並んで、中川飛騨守旧蔵の同じ文化元年上呈伊能小図の写本が蔵されている。中川本は市中購入であるが、中川飛騨守が伊能図を所蔵していたといことは、充分伊能測量に関心を持っていたというべきであろう。

 伊能測量は多くの人々に支えられて成功したと思うのだが、もし中川飛騨守に伊能批判の気持ちがあれば、糸魚川事件はどう展開したかわからない。
 目付は幕府でも重視された役職だった。中川の妻は老中を務めていた磐城平藩主(5万石)安藤信成の1度結婚に失敗した妹だったが、目付け就任前は、中川が時々訪問しても、ろくに会ってもやらなかったという。目付就任の挨拶にいったときは、親子で出てきて懇ごろに祝いの言葉を述べた。目付は大名ですら一目置く要職だった。中川は定信の片腕として能力を発揮していたらしい。

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