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第次測量出発までの微妙なやりとり

測量日記第三巻:第一次測量帰着日の日記』
 「十月二十一日 朝六ツ後出立。曇天、草加より千住迄二里八町、此所へ着前、途中へ松村町堺屋源八、神田冨山町時計師弥三郎、大工長兵衛、畳屋金左衛門、右宿入口にて伊能三郎右衛門、同七左衛門、大川治兵衛、大工町名代天満屋八右衛門、樽屋喜兵衛、喜太郎出迎ける。 高橋先生より御使札給ける。千住にて不残酒宴昼食をなし九ツ頃出立。司天台へ立寄。八ツ頃深川隠居宅へ着しぬ。
 閏月の中の九日に立出しより、今日陽無月末の一日まで、年半に余り二日をなん旅行しける。往古より「遥遠事を津軽、合浦、外ケ浜」と云侍りければ、外ケ浜をなん生涯に行は難しと覚えける。いわんや外ケ浜より又大海を隔たる上に、寒冷卑湿の二百余里もありける蝦夷国の西別という所迄往来しけるに、供したるもの四人とも一日の病もあらて、無事に帰府しぬるは誠に台命の辱と祖神の霊にあらずんば、いずれぞ如斯ならんと難有感じ侍る。此日大川治兵衛を以、鈴木甚内様御内意被下候趣を以、田中伊助を相頼帰府届をなし、猶御添触一通下御勘定所へ返上。返上書付文書は大川治兵衛所持。

 十月二十二日 朝六ツ後より夜に入迄、蝦夷御掛へ帰府届相回る。
     私儀、蝦夷地測量  津田山域守知行所
     当年の御用向相済  下総国佐原村元百姓 浪人 伊能勘解由
     昨二十一日帰着仕候 
     右為御届参上仕候
      十月二十二日   文字並紙の寸法、如右
右書付御銘々へ差出し候。回順。
松平信濃守様、本挽町築地。石川左近将監様、霞関。坂本伝之助様、下谷中御徒町。三橋藤右衛門様、飯田町。堀留羽太庄左衛門様、築土明神下五軒町。鈴木甚内様、根津七軒町。水越源兵衛様、白山。細見権十郎様、白山。寺田忠右衛門様、下谷御徒町御先手組屋敷。村上三郎右衛門様、下谷三枚橋。津田様、村田鉄太郎様、本所御台所町。
道中より足痛に付、雇駕篭にて柑回、夜五ツ頃に帰家。<2STRONG>駕篭料九百銅。」

 忠敬さんは、第1次の蝦夷地測量から10月21日に帰着、22日は帰着届と挨拶に関係役人宅11軒を1日かけて回る。朝の夜明け直後から日暮れまでかかった。足を痛めていたので雇い駕籠を使って900文かかったという。(測量日記第3巻)1両を20万円、銭5000文を1両とすると36,000円になるが、タクシーを時間で契約したら、こんなものかな、というところである。測量以外に手続きも結構大変だったことがわかる。
 地図仕立てには、隊員の門倉隼太の他に、佐原入夫の際、親元になってもらった平山家の跡取り平山郡蔵、友人で漢学者の久保木清淵(この人は能筆だった)、内妻お栄も手伝って、11月始めから、昼夜兼行で12月20日に仕上がり、21日に下勘定所に持参し坂本伝之助へ渡した。大図21枚、小図1枚だった。

  注)下勘定所:勘定奉行の役所は城内にある御殿勘定所と大手門脇にある下勘定所に別れていた。御殿勘定所は奉行ほか少数で、大部分の職員は下勘定所に詰めていた。
 
 180日間の測量データを約50日間で整理して地図に描いている。恐ろしく早い仕事だ。馴れた仕事ではなく、初めての仕事だった。大変だったろう。そしてすぐ手当の22両2分の交付申請を26日に蝦夷会所に息子の秀蔵が代理で提出する。忠敬は24日から持病で健康状態が悪かった。ますます、大変さが分かってくる。申請書提出3日後の29日の夜9つ頃、というから真夜中であるが、会所から手当金を忠敬宅に届けられたという。
 (測量日記第3巻)
 
 坦々と記された事実から、年内に地図を納めさせ、手当を払って結了にしたいという幕府機構末端の蝦夷会所側の都合で、伊能グループは仕事をせかされたことが、透けてみえる。もともと、北海道のはずれまで3,200キロを徒歩で往復するのに、6月11日出発では遅すぎた。それはひとえに、利用を認める公定賃金の人足数にこだわった決定の遅れのためだった。決めることを決めないで、最後だけ合わせようとする、現代にもよく通じる話だった。
 
 そのため、最終工程の地図仕立ては、佐原から盟友の久保木を呼び、郡蔵や内妻のお栄まで動員する大忙しになってしまう。もっとも、お栄は、もと久保木の弟子だったことが最近分かっており、才女で地図仕立てにも活躍したことが、師匠高橋の手紙から伺われるから、チーム伊能の戦力増強に大いに役立ったらしい。
 
 測量日記第2巻の冒頭に、正月5日、高橋先生、桑原先生に年始の挨拶に出た際、昨年12月20日に桑原から非公式にいわれていた「今年も引き続いて測量をおこなわないか、その願書を認めておくように」といわれていたが、暮は病気で出来なかったので、年始の挨拶に持参した、とある。
 桑原のアドバイスは、その後の経過からみると、個人の思いつきではなく、幕閣の若年寄・堀田摂津守の内意をうけたものであることがわかる。
 
 これを何とみるか。12月20日には地図はまだ正式に提出されていない。完成した地図も見ないで、次はどうする? などという話が出る筈はないから、どこかで桑原は完成図を堀田摂津守の内覧に供していたのではなかろうか。このとき作られた地図は、下勘定所への提出図のほかに、天文方経由堀田摂津守への提出図のこと日記に書かれている。
 
 当然ながら、伊能家に遺す控え図も作られたから、最低3部は必要だった。堀田摂津守への謹呈図を天文方経由としたのは、天文方用の写しは、天文方で作成する含みだったろう。第1次測量の伊能図は針穴を利用した複数枚同時制作の手法がとられていない。記録はないが、1枚の原図を作って、これに地図用紙をかぶせて写す、敷き写し方式がとられたのだろう。
 
 そうだったら、少なくとも1枚は早い時期に制作され、これをもとに勘定所や摂津守への提出図が入念に制作されたと考えられなくもない。何がいいたいかというと、完成前に途中経過として地図を堀田摂津守の閲覧に供する機会はあったということである。
 
 桑原隆朝は仙台藩の上級藩医(400石)で、忠敬の3人目の妻お信の父だった。このときすでにお信は没していたが、忠敬とはウマがあったと見えて、伊能測量の実現には並々ならない貢献をしている。彼のパワーの源泉は、松平定信に見出されて、仙台藩主伊達宗村の8男ながら堅田の堀田家を継いだ堀田摂津守との深いつながりだった。
 
 骨を折っている忠敬の測量事業が、測量旅行を終わって地図作成にかかっているとき、その進捗が気になって作業場を覗きにきてもおかしくはない。仕上がっている原図の見事さを感じて、摂津守に中間報告をしなければと、地図を借り出したのではないか。
 
 摂津守もこれを見て、従来の絵図とは違う本物の迫力を感じたのではないか。第一次測量は忠敬から散々願って実現したのであるが、第二次測量は、幕府側の内意として、もう一度願い出ないか、ということになったらしい。忠敬は手ごたえを感じて雄大な提案をした。船を買って寝泊まりしながら北海道残部を測る。その場で地図が仕立てられるよう作業用品一式を収容する長持ちの携行したい。
 
 しかし、摂津守もそこまでは考えていなかったらしい。折衝の末、コースの変更となり、北海道残部をやめて、唐突に、伊豆半島沿岸から本州東海岸測量と決まる。だが伊豆半島追加の経過は日記には記されず不自然である。筆者は、ここで堀田摂津守は松平定信と相談をしたと推測する。井上ひさしは小説家なので、「四千万歩の男」のなかで、簡単に定信を登場させているが、その証拠がなかなか出てこないのである。御存じの方は御教示をお願いしたい。
 
 松平定信は伊能測量の頃は老中首座を退いていたが、みずから登用した松平信明以下の老中が残っていたし、必要なら閣議に出席して意見を述べることできる立場にあって、幕閣に対して影響力を持っていた。一方、文雅の道を通じて堀田摂津守とは親しい交わりがあった。堀田はここで定信の意見を聞いたのではないか。定信は伊豆地方を草鞋ばきで巡視しているし、伊豆・相模は国防の要地といっているから、伊豆半島が伊能測量に追加する理由は充分にある。
 
 堀田も定信の賛成意見を聞いて自信を持ったのではないか。楽翁公も賛成というのは強力な後楯だったろう。遥か後年の第5次測量にもそう感じさせる場面が出てくる。

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