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福岡藩士・青柳種信(四七歳)に惚れ込む

 房総郷土資料のなかに「筑紫史談」の記事として、青柳種信と忠敬のことが出てくるが、忠敬の人柄がよく出ているので紹介したい。伊能隊の来着がきまると、地元の諸藩、村々では接遇および作業支援のため、自主的に測量経験のある地区に聞き合いの使いを出して情報を集めはじめる。村々には一年以上前から、幕府勘定奉行からの先触れがまわった。村は伊能隊を受け入れる直接の当事者であるから、藩の指示がなくとも自発的に行動をおこす。藩の方は全てを村側にまかせ、報告を聞いてポイントにだけに藩の意向を反映させることもできた。 他藩との振り合いで、使者を立て土地の名産を進物をするとか町奉行、郡奉行、浦奉行、代官などが挨拶することは、各地の藩でおこなわれたが、西国の諸藩では、領内の大庄屋たちに「うまくやれ」といってまかせてはおけなかった。藩士を付き添い役に任命して、大庄屋たちの指導にあたらせたところが多い。筑前の国学者として著名な福岡藩士・青柳種信は、通称を勝次といい、柳園と号した。六石三人扶持の下級武士の家に生まれたが、1782年(天明二)一七才のとき、江戸藩邸詰めを命じられて出府。四年間江戸に住み、藩主侍読・井上南山に儒学を学んだ。 1789年(寛政元)、ふたたび江戸詰めの命を受けると、道を伊勢路にとって松坂の本居宣長の下に至って入門し、鈴の屋門下として江戸に着いた。在府中、賀茂真淵門下の高弟と交わる。
 その頃、香取神宮、鹿島神宮にも遊んだことがあるという。以後国学の研鑽につとめ、筑前における国学の始祖となった。
 1808年(文化五年)浦奉行井手勘七のもとで浦方附き頭取となる。1812年(文化九年)伊能忠敬が測量にくると、藩命により御手当附廻りを命じられ、浦方出入・山田宇平を同道し、大庄屋、庄屋など多数を召連れ、小倉境に出迎えた。

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