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一日44kmの測量

 第一次測量、宇都宮止宿の部
「閏四月二十一日朝曇天、四ツ頃より少晴、九ツ半頃より又曇る。八ツ半小雨
夜は大雨。古河宿を朝五ツ前出立。二十五町野木宿、一里二十七町間々田宿、
一里二十四町小山宿、一里十一町新田宿、二十九町小金井宿、一里十八町石橋宿、
一里半五町雀宮宿、二里一町宇都宮城下、暮六ツ前に着。宿成田屋吉右衛門。」
とある。
 単純すぎて面白くないな、と感じるのだが、数字を眺めていると、気がつくことがあり面白くなる。
 先ず、宿駅の間隔が短いことである。ここに出てくる8区間の平均が一里十五町だ。東海道の品川から京都三条大橋までの五十四区間の平均は二里十二町だから、ここより倍近くの長さである。奥州街道全部にこれほど宿駅が整備されていたとは思わないが、かなりの交通量があったようだ。あるいは、関東平野が拓けていたということであろうか。
 次に、一日の測量距離である。合計すると十一里十四町となる。キロに直すと44.427キロメートル、マラソンよりも長い。通常の歩行の場合、一里は大凡一時間だけど、歩測しながら何時間で歩いたのであろうか。
閏4月21日は陽暦に直すと6月13日。1800年と2012年では昼夜の時間は違うと思うが、概略のところとして現在の暦でみると、宇都宮の日の出は4時22分、日没18時59分となっている。
 到着の暮六つは日没だから19時、朝五つ前は何時か。明け六つが日の出とすると現在の4時半だから、五つは7時頃、その頃出発と考えると、日没から日の出を引いて12時間となる。昼食と小憩に1時間を除いて11時間である。1時間の測量距離は4.4キロとなる。歩測で歩けない距離ではないがかなりの急ぎ足である。歩測係はいいだろう。梵天係はいつも走って位置に付いたに違いない、方位係は測定次第、次の梵天まで小走りだったのではないか。
そう役回りを推測すると、梵天は伊能秀蔵と平山宗平、方位は門倉隼太、歩測は忠敬ということだったのではないか。これで手一杯だったろう。とにかく北海道まで3,200キロを往復するのに、6月11日出発は遅すぎた。隊員一同北海道が寒くならないうちにと頑張ったらしい。(京都までの東海道は500キロだった)。

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