ホーム » DataBaseサービス » 人物DBご連絡一覧 » 日蝕観測に挑戦した能代で …

日蝕観測に挑戦した能代で日々接待した庄屋相沢金十郎の子孫になります。

ご連絡概要(2016年3月30日)

日蝕観測に挑戦した能代で日々接待した庄屋相沢金十郎の子孫になります。三厩からの帰路の際は宿舎として厚遇させていただきました。それから6年後の文化5年、金十郎の養子文五郎治信が江戸で勉強したいと言い出しました。金十郎はさっそく旧知の伊能忠敬宛に書状をしたためて相談しました。忠敬からの返信をが故相沢正平氏が所蔵していたそうですが、残念ながら昭和24年の大火で類焼したと言います。また、故近藤八十二翁編「能代乃武加志」に『高橋作左衛門から相沢金十郎宛の書状を高橋梅亭氏が所蔵』とあります。梅亭夫人は相沢家の長姉です。生家から貰ったのでしょうが、この書状も類焼しました。
忠敬と金十郎とのやり取りの内容は分かりませんが、文五郎治信は文化5年8月末に江戸へ出ました。36歳でした。翌年2月、治信は高橋景保に入門しました。入職3年目には彗星略説、彗星測算録、実測録、目窺録の各1冊を献上したと言います。それらは現在秋田市立図書館に所蔵されています。

伊能忠敬e史料館のコメント

彗星略説などのコピ-をお預かりしています。
 能代では伊能隊は11泊して日蝕観測に挑戦しましたが結果は天候にはばまれて成功とはいえませんでした。この間、庄屋相沢金十郎さんは、同役三島嘉右門さんと宿老の村井文右衛門、町役人与四郎などを指揮して接遇にあたられました。町の長さ19町、家数千軒といいますから大きな町だったのですね。宿は能登屋半六でした。6年後の文化5年8月に、金十郎の養子文五郎治信が江戸に勉強に出たという話は全くしりませんでした。忠敬の行動を身近にみて、触発されるところがあったのでしょう

▲このページのトップへ