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伊能図入門

伊能図序説

●伊能図とは

 伊能測量隊が制作した日本図のことを伊能図と総称しており、部分的な図と日本全図がある。伊能隊は10回にわたった測量旅行において、その都度(第三次測量を除く)測量した地域の地図を作成して幕府に提出しているし、測量地域に関係なく制作した地図もあったので、作成された伊能図の総数は、知られているだけで約440種類にも達する。

 これを縮尺と描画内容により分類すると、大図特別大図中図小図特別小図特別地域図江戸府内図官板実測日本地図、などに分けることができる。また提出年を冠して、寛政12年大図文化6年中図、文化元年小図と呼ぶこともある。
途中提出の伊能図は部分的な日本図であるが、最終提出図は日本全図だった。

 種類が多くて混乱するが、ただ伊能図という場合は最終本・伊能図を指すことが多い。途中段階の伊能図は、文化元年伊能小図というように提出年を加えないと、何年に提出した小図か判断ができない。

 
特別大図は伊豆七島のみで制作された大縮尺の図である。特別地域図は景勝地の厳島、天橋立、琵琶湖と伝存しないが浜名湖の部分だけ作られた鑑賞用の地図である。特別小図は小図をさらに縮尺2分の1にしたもの。シーボルト事件の発端となったのはカナで書かれた特別小図だった。江戸府内図は江戸内部の主要道路を計測した大縮尺の図である。

 官板実測日本地図は、伊能小図に北海道の内陸部と樺太のデータを追加して、幕末の慶応元年に幕府開成所から木版刷りで刊行されたもので、伊能隊以外の測量データが追加されているが、伊能図の最終完成品ともいえる日本図である。

 
その他に、忠敬が測量を開始するキッカケとなった江戸で緯度一分を測定した黒江町浅草測量図や自作地球図などがあるが、地図と呼べるほどのものではない。

いっぽう、現存する各種伊能図をその成立過程で分類すると、次のように分けることができる。

正本:幕府に提出された図。大日本沿海輿地全図と名づけられた最終図は、幕府の紅葉山文庫に収納され明治政府に引き継がれたが、明治初年に複製制作のため太政官に貸し出し中に焼失した。しかし、中間段階の提出図は必ずしも幕府の書庫に収納されたとはいい切れない面がある。今後の調査によっては途中段階の提出本が確認できる可能性がある。

副本:針穴(後述)があって、正本に準じて制作され、完成度が旧伊能家控図(現在は伊能忠敬記念館所蔵)と同等以上の図をいう。東京国立博物館の中図(豊橋藩主・大河内松平家旧蔵)、徳島大学図書館の諸図(徳島藩主・蜂須賀家旧蔵)、仏人・イブ・ペイレ氏旧蔵の中図(伝来不詳)などが、これに該当する。

写本:江戸時代に手書きで模写された図。丁寧に写されれば写本でも副本と変わらない。伝存する写本のなかには東京都立中央図書館蔵の小図(幕末に老中・阿部伊勢守の指示により、天文方で写図)、神戸市立博物館蔵の小図(伝来不詳)のような素晴らしい図から、粗末な模写図まで色々あり、玉石混交である。

稿本:副本と同じ方法で作成されたが、何らかの理由で完成されなかった図をいう。京都大学図書館の伊能諸図(土浦の内田家旧蔵)や、個人蔵の伊能図に見られる。

模写本:明治以降、伊能図の面影を伝えるため、手書きで模写された図。専門家の模写で、特長のある貴重な図が多い。国立国会図書館蔵伊能大図、アメリカ議会図書館蔵伊能大図、日本学士院蔵伊能中図、海上保安庁海洋情報部蔵伊能大図がこれに該当する。

複製図:機械的手法で複製された図。

●伊能図の表現、記号、注記

 手書き地図の伊能図でまず目に入るのは彩色である。基本色は山地が緑、海面・湖沼・河川は水色、砂浜は黄色または橙色である。その他の部分に一部茶褐色を使う場合もある。街道と海岸の測線および遠山を見通した方位線は朱である。

 平地は着色するものとしないものがある。彩色する場合は淡緑色あるいは淡いピンク色が使われる。彩色のうち緑色は色の濃淡が目立ち、また色調に黄緑系と青緑系の二種類があって、直感的な華麗さに大きな影響を与えている。東京国立博物館の伊能中図は典型的な黄緑系である。
 
 地図記号(伊能図では地図合印という)は主に中図・小図で使われ、宿場、郡界、天測地点、国界、 港湾、 神社、 寺院、 陣屋、城などがある。これらの符号が全然ないものや一部書いてない伊能図は多い。全種類記入されている図は完成度が高いということができる。簡単な見分け方である。

 なかでソックリ記入省略されることが多いのは天測地点☆である。美しい東京国立博物館の中図には残念ながら印がない。
 
 地名
は沿岸部では海側から読むように書かれるが、内陸部では一定しない。郡名は一重の枠内に、国名は四角の二重の枠内に墨で書く。よい図は達筆の楷書である。地名は他の図と対比すると書き洩れも見つかる。地名採択の基準は明確ではない。
 
 中・小図では太い墨線の経緯線が描かれる。これについても、緯線だけで経線がない図とか、なかには経緯線が全然ない図も見られる。東京国立博物館の中図では記入されているが、描画が錯綜した狭い部分には書込まないようにしている。 
 
 富士山など著名な目標に集中する方位線は、多くの場所で「遠山見通し」の目標としたことを示すもので、測定地からの方位が記入されている。測定した全方位角は「山島方位記」六〇冊余に記されており、非常に多いのだが、地図では密集するので数をしぼって描いている。
 
 その他、中・小図では、解説と記号の説明を記した凡例距離、北極出地度(緯度)などの付表がついたものがある。これらは提出先に応じて編集して付加された付録で、標準的な記載事項ではないと思われるが、正本が確認できないので確かではない。
 
 同じように、題名についても現存する伊能図では色々な名称がつけられているが、それらは受け取った側が適当な名前をつけたものである。正本ではどの位置に、どのような形で記されていたかは分からない。

●正本と副本の違い

 地図用紙を何枚か重ねて、その上に測量下図をおき、曲がり角に開いている針穴を針で突いて測線を写せば何枚かの針穴本を同時に制作することが出来る。当時、手書き地図を写すために針穴を使った例はない。原図を一枚つくり、これに複製する用紙をかぶせて敷き写すのが普通であった。

  伊能図だけが初めから針を使って下図を描き、同じ針穴を突いて地図を制作した。複数枚のなかの一枚に、入念に沿道風景とか地図記号を書き込み、凡例・付表をつけて幕府への上呈本(正本)としたらしい。また一枚は、ほぼ正本に準じた形に仕上げて、控え図として伊能家に残した(副本)と考えられる。
 
 伊能家に残っていた副本は、1961年(昭和36)にほとんどすべて、佐原市(当時、現在は香取市)の伊能忠敬記念館に寄付されている。そのなかの他の地図が依頼をうけていた諸侯にも献呈された。

 諸侯への献呈図が正本と、どの程度ことなっているのかは分からないが、徳島大学所蔵図(徳島藩蜂須賀家に謹呈されたもの)のように、伊能忠敬記念館の副本よりも丁寧な仕上げの図が見られる。
 
 手書きであるがゆえに、仕上げの程度には、用途と提出先によって多少の差がみられるのである。複数枚重ねて針穴を明けた地図紙を用いて、提出用(正本)、控え図用(副本)、諸侯への提供用(副本)等、用途に応じて、記入内容、彩色、付表、凡例、題名、識語などの、いわば完成度を若干変えて仕立てられたらしい。

 したがって、伊能忠敬のグループが、下図の定稿図を写して作成した伊能図には、必ず針穴が残っている。逆に針穴があるものは、ごく一部の例外を除いて、伊能グループの作成と考えてよい。

伊能図解説

●伊能図の内容と構成

 
鈴木純子

●伊能図 発見の歴史

 
渡辺一郎

●伊能図所蔵した諸侯・個人

 
渡辺一郎

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