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間宮林蔵は忠敬の門人

  間宮林蔵は伊能忠敬の弟子である。その証拠は、九州測量第二回目の旅立ちにあたって、間宮林蔵の求めに応じて与えた「間宮倫宗に与える序」のなかに記された内容で十分である。
 また、忠敬は伊能測量隊が測量していない部分は伊能図には書かなかった。他人が作った資料は一切あてにしないという厳しい実証主義を貫いたということである。そのなかで、唯一の例外が、間宮林蔵の測線である。最終本・伊能図の北海道部分は、間宮の測量した蝦夷地北西岸のデータを活用してまとめられた。
 間宮が弟子で、忠敬が最大限の信頼をおいていなかったら、こういうことはありえなかったであろう。
 その間宮の墓は、出生地の埼玉県・伊奈町にもあるが、富岡八幡宮にほど近い江東区平野町にもある。墓碑前にある東京都江東区教育委員会の解説はつぎのとおりである。
『間宮林蔵は安永九年(一七八○)、一説には、安永四年、常陸国筑波郡上平柳村に生まれ、天保一五年(一八四四)に深川蛤町の家で没した。名は倫宗(ともむね)といい、伊能忠敬に測量を学び、寛政一二年(一八○○)に幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷地をはじめとする北地探検と測量に従事しました。文化五年(一八○八)幕命により、松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を探検した。林蔵は翌年七月二日単身樺太からシベリアに渡って沿海州に入り、黒竜江(アムール河)をさかのぼり、デレンに達しました。この一五ヶ月におよぶ探検で、樺太が島であることが明らかになりました。林蔵は後に間宮海峡と命名される海峡を、欧州に先駆けて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に著名になりました。』
 簡にして要を得た解説である。特に付け加えることはない。あるとすれば、林蔵が何時忠敬の弟子となったかの一点だけである。
 「間宮倫宗に与える序」では第一次測量の途中で逢って弟子にしたとあるが、当時林蔵は村上島之丞の従者であり、やや疑わしい。
 つぎの機会は、第七次測量から帰着して第八次測量出発までの間である。忠敬宅を八回くらい訪問している。間宮来るとしか日記にはないが、多忙な忠敬と茶飲み話などはありえない。蝦夷地測量指南を受けていたと考えられる。このとき林蔵はすでに、樺太探検を果たして名士であった。忠敬がさかのぼって入門を認めたことは充分ありうるだろう。

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