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その他

緯度1分を測る

*伊能忠敬が測量を志すようになったきっかけ

緯度1分を測る

天文・暦学を学んでいた伊能忠敬がなぜ測量を志すようになったのだろう。世田谷伊能家に、左端に掲載しているような深川黒江町の隠宅と暦局、浅草寺を結んだ忠敬自筆の簡略な測量図が現存している。説明した資料はない。

明治の伝記作者大谷亮吉は著書『伊能忠敬』において、本図をもとに史料を総合して、暦学から測量への推移について、

「緯度一度の距離を確定することは、当時素養ある暦学者の等しく希望したところで、忠敬もその必要性を知っていた。たまたま、忠敬の居所深川黒江町と浅草暦局とは緯度が約一分半で、この数値は暦局及び自宅において数多の恒星の観測により精密に求められていた。

そこで忠敬はこの二点間の地上南北距離を測定して、緯度一分の距離をきめようとした。しかし、当時江戸府内で公然と道路の測量を行うことはできなかったので、簡単な磁石と歩数により、窃かに両地点間の距離の略測を試みたようである。当時の略測図と思われる地図が伊能家に現存する。

忠敬は、この略測の結果を持って、更に詳細に計測してはどうかと師匠至時に提案する。至時は府内の短小な距離を測量しても、精確な緯度一度の距離は求められないとし、地度実測について抱いていた大計画を告げた」と述べる。

これまでに刊行された多数の著書は殆ど大谷説によって書かれているが、ここは忠敬研究にとって重要なポイントである。もうすこし、史料をあたってみよう。

忠敬自身の記録は、文化13年に著した忠敬の唯一の著書である『仏国暦象編斥妄』のなかに出てくる。(原文は漢文。佐久間達夫氏の読み下し文による)

「 前略 居地暦局を距たること南北一里ばかり。暦局は北極高三五度四二分、深川は三五度四○分半、北極の差一分半也。ここに因って深川より暦局に距る行路を測量し、吾が朝南北一度の里数を窮めんと欲す。高橋子曰く可也。然れども行路少なく、極差小なり。北極一度の法をなすに足らず。まさに時をまつ有るべき也。その後寛政庚申歳、命を蒙り蝦夷地を測る。帰路奥州街道を測る。 後略 」

ここには、緯度一分を実測したとははっきり書いてない。種々の事情から明確にできにくい理由があったかもしれない。しかし、吾が朝南北一度の里数を窮めんと欲す、というあたりは、そう読めないこともない。

本図の検証は、詳細な項もあるので見て欲しい。この道筋は現在でもたどることができる。(下位ページにその道筋を掲載しています)

当時、江戸市中で許可なく測量用の縄を張ることはできなかったのは事実だろう。そうなると大谷氏のいうように、距離は歩測し、曲がり角では懐中磁石を用いてひそかに方位を測って、作図するしか方法はない。計測値はたしかに粗雑である。

しかし、測量図が残っているのだから、忠敬が計測したことは確かである。この図が議論の発端となって、蝦夷地測量が開始され、全国測量に発展したとすれば、伊能測量のキッカケとなった図といえるだろう

 

能忠敬の意外な側面

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東京忠敬史蹟

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忠敬試毫1

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楽天樓主人

伊能 陽子   研究会報20号

楽天樓主人

「楽天樓主人」は、忠敬の雅称の一つである。わが家に残されている原稿の下書きの中には、楽天樓と名を入れた原稿用紙を使ったものもある。今回は、測量の旅で出会った文人との交流に触れてみたいと思う。測量先で作った忠敬自身の歌もあるし、その土地の神社仏閣の由来を書き留めたもの、或いは贈られたり、または所望したその地の文人の詩歌が残されているところを見ると、数字や計算に取り囲まれているだけではない忠敬の一面を、覗くことができてほっとする。

 

 

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