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伊能忠敬と伊能図

伊能図

忠敬は測量の都度、部分的な地図を幕府に提出しているが、最終的な完成図を「大日本沿海輿地(えんかいよち)全図」という。いわば、伊能測量の総集編である。研究者の間では「最終本伊能図」と呼んでいる。

「最終本伊能図」は、

  • 大図(縮尺 3万6000分の1)214枚
  • 中図(縮尺21万6000分の1)  8枚
  • 小図(縮尺43万2000分の1)  3枚

からなっている。

←小図・中図・大図の大きさの比較

大体の大きさは、大図1枚がほぼ畳(たたみ)1枚程度。中・小図は横幅160cm、縦150~250cm程度の巨大図である。

伊能プロジェクトには、日本全体の地形を明らかにするという目的があったから、日本列島の沿岸部は細かい島嶼(とうしょ)まで丁寧に測られた。あわせて、沿岸測量の往復路として主要街道が実測され、全測量距離は4万kmに達した。

伊能図は手書き地図で、測量線を朱、山景を緑、海面と水路を水色。砂浜は黄、平地を橙または薄縁に、美しく彩色している。測量精度が高いことに加え、美麗なことが伊能図の特徴である。

「最終本伊能図」上呈本は、江戸幕府から明治政府に引き継がれたが、1873年(明治6年)、ウィーン万博に展示するための複製を制作中、火災に遭って焼失してしまった。

いっぽう、当時急速に実測による近代地図を整備するには、伊能図を利用するしか方法がなかったので、測量司では明治5年、佐原の伊能家から控図(副本)を 借用し、ついで再献納を要請する。この伊能家控図をもとに、内務省、陸軍参謀局、海軍水路部等で、地図資料として模写がおこなわれた。

模写図をもとに近代地図の原型である20万分の1図が作られ、並行して三角測量による20万分の1図がつくられて一枚づつ置き換えられたが、20万分の1図から伊能図の痕跡が完全に消えるのは、上呈より108年後の1929年(昭和4年)だった。

控え図(副本)は、曲折を経て内閣の収蔵品となったが、これを東京大学図書館に貸出中に関東大震災(1923年)に遭い、焼失してしまった。

というわけで、2001年前頃までは、大・中・小国のごく一部を除いては、伊能図の全貌は不明であったが、最近、私どもの努力で伊能図発見のニュースが続き、2004年7月の時点でようやく、大・中・小図すべての全容が明らかとなった。

 とはいっても、伊能忠敬が描いた本物が出てきた訳ではなく、大名等に献呈された伊能図、明治期に必要があって模写された模写本、模写本のそのまた写しなどによる伊能図最終本一式の所在が判明し、画像として収録できたということである。

なかでも一番の大量発見は、筆者夫婦がアメリカ旅行中に見つけたワシントンの連邦議会図書館所蔵の伊能大図模写本207枚であった。全図の借用を申し込んだが、いろいろ制約があって、結局、神戸、仙台、熱海、名古屋地域の各8枚ずつ計32枚だけを借りて、2004年に展覧会を開催することができた。

全図のデジタルデータは国土地理院で入手して、展示用の原寸大の複製を作成していただいた。また伊能家7代目の伊能洋氏(洋画家)の監修で若干の彩色をおこない、フロアに敷き並べ、透明パネルをかぶせて上を歩けるように制作された。

この展示(「フロア展」と呼ぶ)は、2004年度において、ナゴヤドームをはじめ、幕張メッセ、広島、新潟、福岡、武蔵大学、日本大学文理学部など全国16箇所で行なわれた。

忠敬自身は上呈された最終本を見ていない。また、受け取った側の幕府でも、江戸城の大広間は500畳くらいだったので、全部を広げることはできなかった。西日本だけを老中・若年寄の前に並べて、上呈を終わったと記録されている。大図のフロア展は幕府時代にもなし得なかった盛業である。今後も10年に1度くらいは各地で開催し、小中学生に公開したいと思っている。

このようなとんでもない巨大地図作りを、忠敬はなぜ始めたのであろう。いろいろいわれているが、忠敬が本音で書いた記録はないので、正確なところはわからない。

状況からみると、隠居後に暦学を勉強して、学問的業績を残したいと考えたことは間違いない。そこへ、師匠の高橋至時から緯度1度の距離の実測を示唆されて、これをテーマとすることになったらしい。

北辺多事なので、蝦夷地の地図作成を表の目的として第1次測量が開始された。蝦夷地測量で分かった緯度1度の数値は、実は師匠の満足を得られなかったのだが、でき上がった地図は幕閣に高く評価された。第2次、第3次と待遇が上がり、第5次測量からは幕府の測量隊として諸藩、沿道の手厚い支援を受け、全国測量を完結した。

忠敬の日本図完成への原動力は何だったか。師匠から話を聞くや、すぐ第一歩を踏み出した勇気と抜群の行動力ではないかと患う。本人も意図しなかったが、忠敬の測地の偉業は、明治以降、昭和の始めまでの約100年間、生き続けた。その業績は、混迷の平成の世に「国家百年の計」とは何かを分かりやすく教示している。

渡辺一郎  

(2004.12. 読売新聞文化欄に寄稿した記事に加筆した)

 

 

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