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伊能忠敬はこの地を測量した

竹田城址(朝来市和田山町)

 天空の城とか日本のマチュピチュとも呼ばれ、雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容で有名な「竹田城址」が現在、観光地として有名である。

 伊能忠敬測量隊は、第八次(九州第二次)測量の帰途、文化11年正月4日(1814.2.23) 姫路を出立し、忠敬率いる本隊は「丹波街道」の測量に向かった(姫路~加西~西脇~丹波~)。
 一方、永井甚左衛門が率いる支隊は「但馬街道」を測量しながら現在の県道104号に沿って北上、11日に山口宿で宿泊。翌12日は曇天で雪風、昨夜以来の降雪で三寸ほど積もっている中を六つ時に出立し、新井村、立脇村、桑市村、物部村(ここで庄屋の儀兵衛で小休止)、久世田村を経て竹田町に到着。

 ※ 三寸:約9cm   (姫路からの伊能測量隊の測量行の地図
   1間≒180.8cm
   六つ時:日の出の前後の1時間。正月12日は陽暦の1814.3.3で日の出は6時半頃
  測量の支援隊は出立の2時間前に集合、このスケジュールが毎日毎日繰り返されていた。

この竹田町について測量日記では以下のように記載されている。
 右が日記原文、左が解読文


 同十二日 昨夜より雪降積三寸 この日曇天雪風
六ツ時後但馬国朝来郡恩田御代官山口村問屋前より
                (画像外)
(ここから)
大谷川土橋三間、久世田村、左タキ谷道追分、
大路川土橋四間、竹田町、字新田、小溝石橋ニ間、
右夷松というあり、上町、中町、左に古城道横町、
此より五町計古城跡、字竹田城山、赤松左兵衛
居城。二百五十年前、観音町、米屋町、昼休年寄
六右衛門
                (中省略)
正月十三日 晴天。午後小雪直に止。六ツ時後
但馬国朝来郡恩田新八郎御代官所和田山村出立
               (以下省略)

※ 五町:約545m
 二百五十年前:測量当時から250年前であるため現在から約450年前になる。


 測量したデータ(距離と方位)や観察した景観に基づいて作成した伊能図には、その竹田城山らしき山も画いている。
 以下の地図は伊能大図128号の朝来市竹田付近と国土地理院の地形図の対応を示す。

 

 伊能大図中の朱線は測線と言われ測量しながら歩いたルートを示す伊能図の大きな特徴である。
 竹田町の上部に画かれている印は宿場、■印は家並を示す。

 竹田町中心部の測線を現在の地図の上に重ね合わせて見るとJR竹田駅前の県道104号のクランク状態を忠実に測量していることを確認できる。

 なお、伊能大図は1分1町(1/36,000)の縮尺で画かれている。
 1町=60間 1間=6尺 1尺=10寸 1寸=10分
 即ち 60 x 6 x 10 x 10 = 36000 (分)

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