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官庁、外国の施設

グリニッジ国立海事博物館

内容は他の「中図」と違い、文化元年 (1804) 提出の「中図」に領主名が書き込まれたもの。「中図」では領主名は書かないのが普通であるが、模写の時に追加されたのか、書き込みのある忠敬作成の原図が存在したのかは不明。

グリニッジ小図

英国小図(本州東部)

本図などの三枚組は、英国の測量艦隊が貰いうけ、測量しないで帰ったと言い伝えられている図である。事実は少し異なり、沿岸測量はしなかったとしても、天測、水深・暗礁の計測などは入念に行われた。帰国後、本図三枚組により1863年に日本近海の海図を大修正された。

英国では、経度の誤差を修正した上で利用している。海図の題名の下には日本政府の地図によると明記されている。図中には海図に引き写す際に描かれた鉛筆による方眼が残っている。各図とも、右下に英国海軍水路部の1864.4.11の受け入れ日付印が明瞭に押印されている。保存良好で、虫食いは少なく、彩色も鮮明で、本州東部は特に美麗である。天測点の記入はなく、地名が若干省略されている。

英国小図(本州東部)

英国小図(北海道)

英国小図(北海道)

英国小図(本州西部・四国・九州)

英国小図(本州西部・四国・九州)

英国グリニッチ国立海事博物館の見学

渡辺一郎  季刊 伊能忠敬研究  第8号より

昨年(1994)、イギリスの伊能小図を自費出版したが、現物をまだ見ていないことと、複製がどのくらい本物に近いかを、見ておきたいと思って、1995年12月に英国のテムズ川の下流にあるグリニッチの国立海事博物館を訪問した。最終版伊能小図の揃いは此処にしか存在が知られていないものだ。

これまで、何回か手紙のやりとりをしているので、まず、ピクチャーライブラリーのマネージャーに対して見学申し込みの手紙を送ったところ、ビジュアルアクセスという担当の女性から正式な用紙で申し込むように、今ならこの日が空いている、と案内があった。ファックスでよいとのことなので、記入して送り返す。すぐ、返信があり、学芸員と一緒にイーストウイングの入り口でまっているから、14時5分前にくるようにといってくる。早速了解を送ろうとして、伊能小図をもとに作成した英国の当時の海図も見せて貰うことを思いだし、追加希望を申し出た。これもすぐ了解されて、随分物分かりがよい感じであった。

12月6日 ( 火 ) の予約なので、3日 ( 土 ) の ANA に乗る。送迎が付いていたのでホテルまで運んで貰う。翌日市内観光半日、ウインザー半日、四回目のロンドンを歩く。5日は個人移動のトレーニングで鉄道利用でカンタベリーにゆく。空いていて締麗で快適だった。6日、海事博物館訪問日である。前回に予約なしで行って門前払いを食っているので、行き方は知っている。ロンドン橋からテムズ川をボートで下ってゆくのが最適だが、冬なので鉄道を使うこととし、約束時間の2時間前に、ビクトリア駅につく。ところが雪のため電車は分からないという。これには参った。仕方がないので、タクシーをつかまえる。グリニッチの国立海事博物館にゆくか、と聞いたらゆくとのこと、幾らだ、二十ポンドはかかるまい、で車上の人になったが、今度は大渋滞で全然進まない。また、ロンドンのタクシー運転手は道をよく知っているというが、地図など出して見ていて、心細いこと移しい。英国グリニッチやっとグリニッチについて、やれやれ。博物館の前を通っているので、ここでいい、というのにどんどん行ってしまう。イーストウイング ( 私は此の場所を知らない ) へ連れて行けと頼んだので、場所が違うのかと思っていたら、隣のダートマスの海軍兵学校へいって、歩いている海軍士宮に聞いている始末。それなら私のほうが良く知っているようなもの。ロンドンの運転手も当てにならないのがいる。料金は一時間近く乗って十七ポンドだから安かった。三十分前に受付について、ソファで待っていると、先方から用を聞きにくる。待っていることを連絡して貰って、博物館のカフェテリアに食事にゆく。約束時間になったら、担当のコンスタンチニイが出てきて、車に乗れという。他の五人組とワゴンに乗せられる。何処へ連れてゆかれるのかと思っていたら、十五分くらい乗って平屋の倉庫につく。ここで、5人組と分かれて学芸員のタイニイに紹介された。女性の助手をつれた中年の男性だった。海図と地図の担当という。まず、海図を見せて貰う。原寸のコピーが欲しいというと、料金を云われ、金は後でよい。私が申し込んでおく、と親切な返事。 ( 海図はその後到着したが、保柳先生の本の海図番号が間違っていて別物が来てしまった )。

入った処は、倉庫のなかだが、うず高く地図や図書が積まれていて、すごくあるなあ、としかいいようが無い感じだ。人間は我々夫婦と先方2人の4人だけ。奥の小さい部屋に伊能小図が広げであった。

写真は個人的研究はいくら撮ってもよい。しかし、発表するには許可がいり、お金を納めなければならない。まず、自分の複製図を広げて本物と較べる。良く似てる。本物のほうが緑がほんの少しダークかな、というところ。北海道・西南部もよく似ている。学芸員も良く出来ているな、何処で作ったんだ、勿論日本だ、というような話。奥州の緑の調子は東京国立博物館の中図に良く似ている。あと、針穴の確認。家内と二人で丁寧に、拡大鏡で調べたが、針穴はなかった。この図は幕府軍艦方にあったことがはっきりしている図であるが、針穴はない。幕末には幕府内部でも、伊能から提出した図以外に写しを作って使っていたことになる。多難な時期に需要が増え優秀な模写チームができていたのかも知れない。

つぎに熟覧と撮影。個人的研究には開放されているので、良くみて、カメラに納め、ビデオを撮る。全景は大形ポジを持っているので、とらない。部分を専ら写す。現物を近くで見ると、ポジでは余りよく見えなかった西南部彩色は鮮明で、山系の濃緑が細かい。本州中部と北海道は同1人、九州と中四国はそれぞれ別人の感じである。

裏打ちは布、折った跡はない。虫食い、傷は殆どない。各図の裏隅に、オールコックに日本政府から送られたもので、測量艦アクテオンとドーブ号から納められたとある。海図に引き写すためという鉛筆の方眼がはっきり書いてある。太い軸に巻き、一本毎に段ボール箱に納める。 ( アクテオンの船首飾りがポーツマスの海軍博物館にあった )

  • 本州中部 縦265糎、横165糎 寸法は実測
  • 西南部  縦212糎、横164糎
  • 北海道  縦166糎、横184糎

海軍水路部からの借用品といい。時間が経つのを忘れていたが、コスタンチニイが来て待ったいた。三枚の伊能図の撮影、寸法、針穴チェック、描画の熟覧で一時間はあっという間だった。帰りはテムズの下のトンネルを歩いて地下鉄にと思ったが、駅まで送ると云うので鉄道で帰った。英語に不自由な我々に皆親切で、積極的に教えてくれた。

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