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官庁、外国の施設

日本学士院

日本学士院

大谷亮吉氏が「伊能忠敬」を編述した際に資料として制作されたと思われます。明治42年(1909)冬東京帝国 (現東京)大学に保管中の伊能家呈出の控図を模写したもので伊能中図全8枚そろっている。一番新しい模写なので色彩は美しく朱の側線が目立つ。

 

イタリア地理学協会

イタリア地理学協会のロベッキー・コレクションの中にある「伊能中図」 。ロベッキー氏はイタリ アの初代駐日総領事で , 助治維新の前年の慶応 3 年 (1867) に来日し , 日本地図など各種の情報収集を 行いました。本図は全 8 枚構成です。地域割りは学習院大学の「中図」と全く同じで , 『日本東半部 沿海地図中図』の奥州の部を南北に二分し , 関東・中部を東西に二分したものと , 蝦夷地の部 , 文 化 4 年 (1807) 提出の畿内 , 中国沿海図および文化 6 年 (1809) 提出の四国沿海図の 8 枚を写した写図です。

 本図の特徴は , 文字がすべてカタカナで記載されていることです。国立国会図書館にあるカタカナ書きの「伊能図」( 特別小図 ) は国名 , 郡名は漢字ですが , 本図は国名 , 郡名もカタカナ書きで す。ただし , 学習院大学「中図」にある領主名はありません。描画は簡略で , 測線沿いに地名を記すほか , 城下 , 宿駅 , 国界 , 郡界 , 天測地などの合印を記入しています。

沿道風景は簡略ですが , 方位線 , 経緯線 , 接合記号があり「伊能中図」の様式は整っています。 このような測量途中段階のカタカナ書きの「中図」が当初からあったとは考えられないので , 多分 情報収集中の外交官が手書きの「伊能図」をカタカナで模写させたもので , 最終図にはアクセスで きなかったものと思われます。ロベッキー氏が日本を離れた時期は不明ですが , 同じコレクションの『官板実測日本地図』には 1869 年の年記があり , いずれにしても , イタリアの国家としての完全統一は 1870 年なので , 統一以前から日本情報の収集が行われていたことを示す図です。

イタリア地理学協会

イタリア地理学協会蔵 伊能中図の構成

  • 蝦夷地    130.0 x 208.5cm
  • 東北の北部  112.5 x 191.0cm
  • 東北の南部  104.0 x 192.0cm
  • 関東     181.5 x 121.5cm
  • 中部     178.0 x 125.0cm
  • 近畿     140.5 x 122.0cm
  • 中国     135.0 x 171.5cm
  • 四国     120.5 x 150.5cm

八舗の中図の構成は下図のとおりで、近畿は沿海地図と文化四年に上呈の中図・畿内沿海図が重複している。識語・凡例はカナ混り文で達筆である。

中図の構成

イタリアにも伊能図があった

渡辺一郎  季刊 伊能忠敬研究  第8号より

つい最近、イタリアにも伊能図があることが分かった。初代イタリア駐日領事(1867年着任)のロッベッキーさんが、帰国の際持って帰られた日本地図は現在ロッベッキーコレクションとして、イタリア地理学協会所蔵であるが、甲南大学(神戸市東灘区)の久武哲也教授がその整理を依頼され、昨年12月に渡伊して調査中に発見された。

その情報が、国際地図学会誌の伊能図特集編集の過程で、北海道大学の羽田野教授から編集委員長である国土地理院地図部長の長岡正利氏に伝わり、筆者に到着したのが、4月18・9日だった。

早速、羽田野、久武両教授に問い合わせたところ、どうも描図形式が学習院大学附属図書館蔵の伊能中図に似ているように感じた。久武教授はたまたま4月24日に東京に釆る用事があるという。早速、21日は日曜日だったが、学習院女子部教頭(兼学習院女子短大講師)の斎藤先生に電話して訳を話し、久武先生と学習院の伊能図を前に置いて検討をおこなうことを提案した。

予定が詰まっており、時間がギリギリだったが快諾され、その日のうちに附属図書館の課長さんに、当日定刻に地図を出庫するよう依頼して頂いた。というような関係者の連携で、4月24日、学習院大学附属図書館でイタリアにあった伊能図の検討会をすることができた。出席は、久武先生、斎藤先生と、話を聞いて急遠加わっていただいた立教高校教諭で法政大学講師の清水先生および筆者の四名である。

検討結果を要約する。

イタリアにあったのは、伊能中図八枚であるが、これは最終版中図ではなく、文化元年に提出された日本東半部沿海地図中図(五舗構成)と、文化4年提出の中国畿内中図(二舗)ならびに文化6年提出の四国図中図(一舗)の計8舗であった。最大の特徴は地名、郡名、国名をすべてカタカナで記入していることである。カナ書きの伊能図としては、高橋景保がシーボルトに与え、のち幕府が取り戻したというカナ書き特別小国(国立国会図書館古典籍室蔵)が有名である。筆者は他に作成目的不明なカナの特別小国が静嘉堂文庫にもあることを知っているが、イタリアのカナ書き伊能図は三番目のものでこれまでは知られていなかった。他のカナ書き伊能図は、国名、郡名は漢字であるが、この図は国名、郡名も枠のなかにカナで記入する点も変わっている。久武教授の持参した部分写真と学習院中図を突き合わせたが、描図がやや簡単なこと以外は学習院中図と一致した。記憶の範囲では、各図の構成も同じとのことであった。凡例の記録(凡例はカナと漢字)も書き込む場所は違っているが、内容は一致した。沿海地図中図は普通は三舗構成であるが、学習院のものは五舗構成で、イタリア中図は学習院中図の様式を踏襲した写しであった。中国・畿内・四国図は国内にある該当図と特に変わっているところはない。あとは推理である。カナの伊能図は日本人には要らないから、此の図が前からあったとは思えない。ロッベッキー氏の希望で作られたものであろう。柑当なボリュームのものをよく写したとおもう。他にも国内に、幕末に作られたと思われる優秀な写本があるところをみると、当時伊能図の需要に応えるため、優秀な写図チームが存在したような気がしている。またどうせ写すなら、最終版伊能図を写したら(当時は存在した)とおもうが、最終版を借り出す手がかりが無かったのだろうか。なお久武先生によると、関西の地名の読み違いが多いという。例えば枚方をマイカタとよんでいる。模写した者は関東の人ではないかとのことである。

グリニッジ国立海事博物館

内容は他の「中図」と違い、文化元年 (1804) 提出の「中図」に領主名が書き込まれたもの。「中図」では領主名は書かないのが普通であるが、模写の時に追加されたのか、書き込みのある忠敬作成の原図が存在したのかは不明。

グリニッジ小図

英国小図(本州東部)

本図などの三枚組は、英国の測量艦隊が貰いうけ、測量しないで帰ったと言い伝えられている図である。事実は少し異なり、沿岸測量はしなかったとしても、天測、水深・暗礁の計測などは入念に行われた。帰国後、本図三枚組により1863年に日本近海の海図を大修正された。

英国では、経度の誤差を修正した上で利用している。海図の題名の下には日本政府の地図によると明記されている。図中には海図に引き写す際に描かれた鉛筆による方眼が残っている。各図とも、右下に英国海軍水路部の1864.4.11の受け入れ日付印が明瞭に押印されている。保存良好で、虫食いは少なく、彩色も鮮明で、本州東部は特に美麗である。天測点の記入はなく、地名が若干省略されている。

英国小図(本州東部)

英国小図(北海道)

英国小図(北海道)

英国小図(本州西部・四国・九州)

英国小図(本州西部・四国・九州)

英国グリニッチ国立海事博物館の見学

渡辺一郎  季刊 伊能忠敬研究  第8号より

昨年(1994)、イギリスの伊能小図を自費出版したが、現物をまだ見ていないことと、複製がどのくらい本物に近いかを、見ておきたいと思って、1995年12月に英国のテムズ川の下流にあるグリニッチの国立海事博物館を訪問した。最終版伊能小図の揃いは此処にしか存在が知られていないものだ。

これまで、何回か手紙のやりとりをしているので、まず、ピクチャーライブラリーのマネージャーに対して見学申し込みの手紙を送ったところ、ビジュアルアクセスという担当の女性から正式な用紙で申し込むように、今ならこの日が空いている、と案内があった。ファックスでよいとのことなので、記入して送り返す。すぐ、返信があり、学芸員と一緒にイーストウイングの入り口でまっているから、14時5分前にくるようにといってくる。早速了解を送ろうとして、伊能小図をもとに作成した英国の当時の海図も見せて貰うことを思いだし、追加希望を申し出た。これもすぐ了解されて、随分物分かりがよい感じであった。

12月6日 ( 火 ) の予約なので、3日 ( 土 ) の ANA に乗る。送迎が付いていたのでホテルまで運んで貰う。翌日市内観光半日、ウインザー半日、四回目のロンドンを歩く。5日は個人移動のトレーニングで鉄道利用でカンタベリーにゆく。空いていて締麗で快適だった。6日、海事博物館訪問日である。前回に予約なしで行って門前払いを食っているので、行き方は知っている。ロンドン橋からテムズ川をボートで下ってゆくのが最適だが、冬なので鉄道を使うこととし、約束時間の2時間前に、ビクトリア駅につく。ところが雪のため電車は分からないという。これには参った。仕方がないので、タクシーをつかまえる。グリニッチの国立海事博物館にゆくか、と聞いたらゆくとのこと、幾らだ、二十ポンドはかかるまい、で車上の人になったが、今度は大渋滞で全然進まない。また、ロンドンのタクシー運転手は道をよく知っているというが、地図など出して見ていて、心細いこと移しい。英国グリニッチやっとグリニッチについて、やれやれ。博物館の前を通っているので、ここでいい、というのにどんどん行ってしまう。イーストウイング ( 私は此の場所を知らない ) へ連れて行けと頼んだので、場所が違うのかと思っていたら、隣のダートマスの海軍兵学校へいって、歩いている海軍士宮に聞いている始末。それなら私のほうが良く知っているようなもの。ロンドンの運転手も当てにならないのがいる。料金は一時間近く乗って十七ポンドだから安かった。三十分前に受付について、ソファで待っていると、先方から用を聞きにくる。待っていることを連絡して貰って、博物館のカフェテリアに食事にゆく。約束時間になったら、担当のコンスタンチニイが出てきて、車に乗れという。他の五人組とワゴンに乗せられる。何処へ連れてゆかれるのかと思っていたら、十五分くらい乗って平屋の倉庫につく。ここで、5人組と分かれて学芸員のタイニイに紹介された。女性の助手をつれた中年の男性だった。海図と地図の担当という。まず、海図を見せて貰う。原寸のコピーが欲しいというと、料金を云われ、金は後でよい。私が申し込んでおく、と親切な返事。 ( 海図はその後到着したが、保柳先生の本の海図番号が間違っていて別物が来てしまった )。

入った処は、倉庫のなかだが、うず高く地図や図書が積まれていて、すごくあるなあ、としかいいようが無い感じだ。人間は我々夫婦と先方2人の4人だけ。奥の小さい部屋に伊能小図が広げであった。

写真は個人的研究はいくら撮ってもよい。しかし、発表するには許可がいり、お金を納めなければならない。まず、自分の複製図を広げて本物と較べる。良く似てる。本物のほうが緑がほんの少しダークかな、というところ。北海道・西南部もよく似ている。学芸員も良く出来ているな、何処で作ったんだ、勿論日本だ、というような話。奥州の緑の調子は東京国立博物館の中図に良く似ている。あと、針穴の確認。家内と二人で丁寧に、拡大鏡で調べたが、針穴はなかった。この図は幕府軍艦方にあったことがはっきりしている図であるが、針穴はない。幕末には幕府内部でも、伊能から提出した図以外に写しを作って使っていたことになる。多難な時期に需要が増え優秀な模写チームができていたのかも知れない。

つぎに熟覧と撮影。個人的研究には開放されているので、良くみて、カメラに納め、ビデオを撮る。全景は大形ポジを持っているので、とらない。部分を専ら写す。現物を近くで見ると、ポジでは余りよく見えなかった西南部彩色は鮮明で、山系の濃緑が細かい。本州中部と北海道は同1人、九州と中四国はそれぞれ別人の感じである。

裏打ちは布、折った跡はない。虫食い、傷は殆どない。各図の裏隅に、オールコックに日本政府から送られたもので、測量艦アクテオンとドーブ号から納められたとある。海図に引き写すためという鉛筆の方眼がはっきり書いてある。太い軸に巻き、一本毎に段ボール箱に納める。( アクテオンの船首飾りがポーツマスの海軍博物館にあった )

  • 本州中部 縦265糎、横165糎 寸法は実測
  • 西南部  縦212糎、横164糎
  • 北海道  縦166糎、横184糎

海軍水路部からの借用品といい。時間が経つのを忘れていたが、コスタンチニイが来て待ったいた。三枚の伊能図の撮影、寸法、針穴チェック、描画の熟覧で一時間はあっという間だった。帰りはテムズの下のトンネルを歩いて地下鉄にと思ったが、駅まで送ると云うので鉄道で帰った。英語に不自由な我々に皆親切で、積極的に教えてくれた。

国立公文書館内閣文庫

伊能図(奥州・蝦夷地図の一部)

日本国地理測量之図および東三十三国沿海測量之図(沿海地図)の二舗を大形の木箱(縦80cm、横60cm程度)に収納する。日本国地理測量之図は、伊能特別小図の周辺に多数の各種数値表を配置したものである。東三十三国沿海測量之図は沿海地図小図の縮尺を1/2にしたものに、数個の数値表を配する。両図とも徳川幕府の紅葉山文庫本と伝える。

奥州・蝦夷地図(続きはPDFをクリック)

国立史料館

宮内庁書稜部

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