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伊能忠敬と伊能測量関連年譜(渡辺 一郎 編)

西暦 和暦 年齢 伊能忠敬関連の出来事 その他の関連する国内の出来事
1745 延享2 0 忠敬、上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に生まれる。幼名は三治郎。
1751 宝暦元 6 母ミネ死去。父貞恒は兄貞詮、姉フサを伴い武射郡小堤村(千葉県山武郡横芝光町小提)の実家・神保家に帰る。
1755 宝暦5 10 父の実家小提村、神保家に引き取られる。
1756 宝暦6 11 前年の奥州の大飢饉により佐原村に浮浪者が流入。 間重富生まれる。
1757 宝暦7 12 常陸国(茨城県)の寺で数学を学んだという。伊能ミチの夫景茂死去。その子、忠孝生まれる。
1758 宝暦8 13 伊能家(三郎右衛門家)、佐原村の貧民救助のため米58俵拠出す。
1761 宝暦11 16 常陸国土浦の医師のもとで経学医書を学んだと伝えられる。
1762 宝暦12 17 伊能豊秋、平山季忠の斡旋で、佐原へ婿入りがきまる。多古の名家・平山家の養子となり、林大学頭に入門して忠敬という名をつけてもらい、下総国香取郡佐原村(千葉県香取市)伊能三郎右衛門家の娘ミチ(達)のもとへ入夫する。通称・三郎右衛門となる。
1763 宝暦13 18 長女イネ生まれる。ミチの先夫の子忠孝死去。
1764 明和元 19 はじめて江戸へ行く。 高橋至時生まれる。
1765 明和2 20 病気のためしばらく静養。
1766 明和3 21 長男景敬が生まれる。佐原村が凶作となったため、窮民を助ける。
1767 明和4 22 田沼意次側用人となる。
1769 明和6 24 二女シノ生まれる。江戸に薪問屋を出す。佐原村牛頭天王祭礼で紛争、永沢治郎右衛門と義絶する。
1770 明和7 25 江戸の薪問屋類焼。
1772 安永元 27 佐原邑河岸一件(河岸免許争い)起こる。 田沼意次老中となる。
1774 安永3 29 河岸免許争いの記録として「佐原邑河岸一件」をまとめる。義母タミ死去。
1775 安永4 30 間宮林蔵生まれる(安永九年説もある)。
1778 安永7 33 妻ミチと奥州松島へ旅行し、「奥州紀行」を著す。 佐原村が天領から旗本津田氏の知行地となる。
1779 安永8 34 長久保赤水「日本與地路程全図」(初版)を作る。
1781 天明元 36 佐原村本宿組名主となる。
1782 天明2 37 実父・神保貞恒死去。 幕府、浅草に天文台を設置。
1783 天明3 38 7月に浅間山が大噴火、利根川洪水、凶作。堤防の修築に尽力する。領主の津田氏より苗字帯刀を許される。妻ミチ死去(42歳)。 工藤平助 「赤蝦夷風説考」を作る(江戸期写本で流布)。大槻玄沢「蘭学階梯」刊行。
1784 天明4 39 本宿組名主をやめ、村方後見となる。
1785 天明5 40 高橋景保生まれる。
1786 天明6 41 次男秀蔵(母は法名妙諦)生まれる。この年から翌年にかけ関東、東北地方大洪水、飢饉。前年に関西で買い付けてあった米の一部を近隣に安く売り窮民を救う。残りを江戸で売り大利を得る。 林子平「三国通覧図説」を刊行。
1787 天明7 42 徳川家斉11代将軍となる。
1788 天明8 43 三男順治生まれる。二女シノ死去。
1789 寛政元 44 三女コト(琴)生まれる。 老中・松平定信、寛政の改革をはじめる。
1790 寛政2 45 妙諦死去(26歳)。仙台藩医桑原隆朝の娘ノブ(信)を三人目の妻に迎える。領主・津田氏に隠居を願ったが許されず。
1791 寛政3 46 家訓を書き、家業の実務を長男景敬に任せる。 林子平「海国兵談」刊行。
1792 寛政4 47 津田氏から三人扶持を与えられる。 幕府、林子平を罰し、「三国通覧図説・海国兵談」を絶版とする。ロシアの使節ラックスマンが根室に来て通商を求める。
1793 寛政5 48 近隣の津宮村の名主・久保木清淵などとともに関西に旅行し「旅日記」を書く。
1794 寛政6 49 隠居が認められ、家督を長男景敬に譲る。通称を勘解由と改める。三男順治死去。 大槻玄沢ら洋学者が「おらんだ正月」を祝う。(寛政6年閏11月1日は、1795年1月1日)
1795 寛政7 50 江戸の父のもとで療養中だった妻ノブが死去する。江戸に出て深川黒江町(江東区門前仲町)に住む。 高橋至時幕府天文方となる。間重富も暦局に入りともに改暦に当る。忠敬、至時(31歳)の弟子となる。
1798 寛政10 53 エイ(栄)を内縁の妻とする。 近藤重蔵エトロフ島探検。
1799 寛政11 54 幕府、知内川以東の東蝦夷地を直轄地とする。暦局出向の津和野藩士・堀田仁助、奥州と蝦夷地南岸を概測。
至時の師匠・麻田剛立死去。
1800 寛政12 55 閏4月~10月、蝦夷地と奥州街道を測量する。
蝦夷地で間宮林蔵に出会う(第1次測量)。緯度1度を27里と計測。
1801 享和元 56 天明年間の窮民救済の功績により、幕府勘定奉行から苗字帯刀を許可される。
4月~12月、伊豆から陸奥までの東海岸沿いと奥州街道を測量する(第2次測量)。
緯度1度を28.2里と算出。
1802 享和2 57 6月~10月、陸奥から越後までの海岸線と越後街道を測量する(第3次測量)。
緯度1度の長さは今回の計測でも28.2里。
志筑忠雄「暦象新書」を著す。
1803 享和3 58 2月~10月、駿河から尾張、越前から越後の海岸線や街道、佐渡島を測量する。
糸魚川で現地の藩役人と考えの違いがあって、勘定所に訴えられる(第4次測量)。
高橋至時「ラランデ暦書管見」を記す。
1804 文化元 59 日本東半部沿海地図を作成、幕府に提出する。その出来ばえが良く将軍家斉の上覧を受ける。小普請組に召しだされ十人扶持を支給されて、天文方高橋景保(至時の嫡子)の手附となる。引き続き、西日本の測量命令を受ける。 ロシアの使節レザノフ長崎に来て通商を求める。
師・高橋至時40歳で病死。
1805 文化2 60 2月より紀伊半島から岡山の海岸線と琵琶湖、淀川沿いを測量。岡山で越年する(第5次測量)。
1806 文化3 61 瀬戸内海の山陽道側の海岸線と島、山陰地方の海岸線や隠岐島を測量して、江戸に戻る(第5次測量)。孫の三治郎(忠誨)が生まれる。
1807 文化4 62 畿内、中国地方など第5次測量地域の地図を作り上呈する。
1808 文化5 63 1月より四国、淡路島の海岸線と大和、伊勢街道を測量し、伊勢で越年する(第6次測量)。 夏、間宮林蔵と松田伝十郎がカラフト探検におもむき、島であることを確認。7月、間宮単身で再度カラフトへ行く。
1809 文化6 64 四国など第6次測量地域の地図を作り上呈する。
8月より中山道、山陽道の街道を測量して、豊前小倉で越年する。
6月、間宮林蔵、カラフトが島であることを実証する。
高橋景保は幕府の命により伊能図をもとに日本輿地図藁を作成する。
1810 文化7 65 1月より九州東・南部、天草諸島などを測量して、大分で越年する。
長女イネの夫盛右衛門死去。イネは剃髪して名を妙薫と改め、佐原にもどる。
1811 文化8 66 大分を出て、九州から中国地方の街道、甲州街道などを測量して、江戸に戻る(第7次測量)。
間宮林蔵、江戸で忠敬宅をしばしば訪問し測量術を学ぶ。
11月より相模、甲州の街道などを測量しながら九州へ向かう。摂津の郡山宿で越年。
1812 文化9 67 九州に渡り、筑前、筑後を測って、屋久島、種子島に渡海する。肥前の賎津浦で越年する。
1813 文化10 68 九州北部の街道、壱岐、対馬、五島列島および中国地方の街道を測量し、姫路で越年する。
長男景敬(47歳)死去、副隊長坂部貞兵衛(42歳)五島で病没。
暦局の高橋役所火災。書籍、書類焼失。
1814 文化11 69 近畿地方などを測量しながら江戸に戻る(第8次測量)。
江戸での居宅を深川黒江町から八丁堀亀島町の桑原隆朝宅跡へ移し、地図御用所とする。
高橋景保御書物奉行を兼任。
1815 文化12 70 2月3日より17日かけて江戸府内第1次測量を行う。4月より下役、内弟子を伊豆七島などの測量に派遣する。忠敬は老齢のため不参加。(第9次測量)
1816 文化13 71 閏8月~10月、江戸府内第二次測量。忠敬は孫忠誨を伴って時々測量に出勤した(第10次測量)。
「大日本沿海輿地全図」の作成にとりかかる。「仏国暦象編斥妄」を著す。
間重富死去。
1817 文化14 72 「大日本沿海輿地全図」の作成を続けるが、体力がとみに衰える。 杉田玄白死去。
1818 文化15・文政元 73 4月13日(太陽暦では5月17日)八丁堀亀島町の自宅で死去。喪を秘して地図制作を続行。遺骸は浅草源空寺の高橋至時の墓側に葬り、爪と髪は菩提寺の観福寺(佐原)に葬った。戒名は有功院成裕種徳居士。このころ孫の忠誨(12歳)は江戸に出て漢学や暦算を学んでいたが、忠敬没後、妙薫が忠誨の世話と地図御用所の管理にあたっていた。景敬の妻りて死去。孫・銕之助死去。
1821 文政4 天文方の下役、門弟たちの協力により「大日本沿海輿地全図」(合計225枚)および「大日本沿海実測録」(14巻)が完成し、高橋景保の序文をつけて幕府に上呈された。それまで伏せられていた忠敬の喪が公表された。忠敬の功績により、孫忠誨に五人扶持と江戸に屋敷が与えられ永代帯刀が許可された。
1822 文政5 長女イネ(妙薫)死去。忠誨、佐原に帰る。 佐藤一斎、忠敬の墓碑銘を書く。
1823 文政6 浅草源空寺に忠敬の募碑が建立される。
1827 文政10 孫忠誨死去(21歳)。 大槻玄沢死去。
1828 文政11 オランダから派遣されたドイツ人医師シーボルトが、高橋景保から入手した伊能特別小図など国禁の図書多数を持ち出そうとしたことが発覚。世にいうシーボルト事件である。シーボルトはこの地図は忠敬ではなく景保が作ったと思っていた。
1829 文政12 高橋景保獄死。シーボルト国外追放される。
1834 天保5 シーボルトが伊能特別小図の写しをクルーゼンステルンに送って意見を求めたところ、絶賛の返事を得た。
1861 文久元 アクテオン号を主艦とするイギリス海軍の測量艦隊が来日し沿海測量と測深を行った際、監督のため乗り込んだ幕府役人が持ち込んだ伊能小図を艦長が見て、正確な地図であることを知り、改めて幕府と交渉して同図を譲り受け、沿岸測量を中止し、主要地点の経緯度の観測と測深をおこなって帰った。
1863 文久3 イギリス海軍水路部は「日本政府の地図から編集」と明記して「日本近海の海図No2347」を大改訂した。これはイギリス海軍が入手した伊能小図にもとづいたもので、これ以降、諸外国製の日本地図が見違えるほど正確なものとなった。このときの伊能小図は、現在も英国海軍水路部に所有されており、グリニッジにある英国海事博物館に保管されている。1998年、江戸東京博物館で開催された「伊能忠敬展」に137年振りに里帰り展示された。
1865 慶応元 幕府開成所より伊能小図をもとにした「官板実測日本地図」(木版刷り)を発行。
1870 明治3 大学南校より「官板実測日本地図」(改版)と「大日本沿海実測録」を発行。
1871 明治4 伊能特別小図の近代版「大日本地図」(川上寛編。ケバ式で表現し、国堺、山地、水系など伊能図の空白を補ったもの)が発行される。
1872 明治5 測量司が伊能家(伊能源六)から最終伊能図の控図(副本)を借用する。のちに同家より献上した。金三百円下賜される。
1873 明治6 5月、皇居の炎上によって太政官内の地誌課に保管されていた伊能図全部が失われる。
1882 明治15 9月29日、元老院議長、日本赤十字社社長佐野常民(旧佐賀藩士)は、東京地学協会総会において「故伊能忠敬翁事蹟」と題して講演を行い、忠敬の功績を称え、東京地学協会の名で、贈位申請と、記念碑建設の提案を行う。
1883 明治16 1月2日、東京地学協会会長・北白川宮能久王の名で、伊能忠敬の贈位が申請される。2月27日、正四位が贈られた。佐野常民と香取郡長大須賀庸之助の尽力が大きかった。
1884 明治17 陸軍参謀本部測量局は、民間用として、伊能中図を基本とし不足部分を他の資料で補った「輯製ニ十万分之一図」を作りはじめ、明治二六年に完成する。この図は、並行して始められた三角測量による基本図の帝国図に逐次置き換えられたが、最後に姿を消したのは屋久島で、1929(昭和4)年だった。伊能図は部分的ではあるが、上呈後108年間生きていたことになる。
1889 明治22 12月、東京市芝区芝公園の丸山古墳の上に「贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表」という青銅製の記念碑が東京地学協会によって建設された。
1893 明治26 幸田露伴「伊能忠敬翁」(『少年雅賞』(学齢館発行)に掲載。
1903 明治36 文部省の「高等小学読本1」に伊能忠敬の1課が設けられた。
1910 明治43 文部省の「尋常小学校修身書巻6」に伊能忠敬の記述が移された。勤勉とか師を敬えという徳目が強調された。
1917 大正6 長岡半太郎監修、大谷亮吉著「伊能忠敬」(岩波書店発行)が発刊される。伊能忠敬伝の古典である。測量器具類の解説はすばらしいが、その他については誤りや偏見がある。
1919 大正8 3月2日、全国からの募金で、千葉県佐原町の諏訪公園に伊能忠敬の銅像が建立された。
1923 大正12 関東大震災による東京帝国大学図書館の火災によって、政府から保管を委託されていた伊能大図、中図、小図および江戸府内図の副本はすべて焼失したという。
1930 昭和5 4月25日、文部省告示により、伊能忠敬旧宅が史蹟に指定された。
1936 昭和11 2月11日、千葉県山武郡九十九里町小関の小関家跡に徳富蘇峰揮毫の「伊能忠敬先生出生之地」の碑が建てられた。
1940 昭和15 3月、大分県別府市役所の近くに、別府市観光課により「伊能忠敬測量史蹟」の標柱を設置。
1943 昭和18 5月1日、東京都台東区東上野六丁目、源空寺墓地の高橋至時と伊能忠敬の墓が、東京都の史蹟に指定された。
1944 昭和19 戦時中の金属回収政策のため、9月23日に東京都芝公園の伊能忠敬先生測地遺功表を撤去。
1957 昭和32 2月19日、文部省から、忠敬の遺書、遺品等215点が重要文化財に指定された。5月25日、北海道函館山に、函館市が建てた伊能忠敬測地記念標の除幕式が 行なわれた。
1961 昭和36 4月3日、国費と県費の補助を受け、忠敬旧宅敷地内に伊能忠敬記念館(旧伊能忠敬記念館)が落成した。同月14日、6代目伊能康之助氏から忠敬の遺書、遺品等の寄贈をうけ、旧宅は佐原市が買収して、一般公開されることとなった。
1965 昭和40 5月8日、東京都港区芝公園円山に、東京地学協会の再建による「伊能忠敬測地遺功表」(近代的石造碑)の除幕式が挙行された。
1968 昭和43 5月17日を中心として、佐原市では伊能忠敬翁150年祭が行なわれた。
10月1日、東京都江東区門前仲町1丁目18に、江東区教育委員会によって「伊能忠敬住居跡」の石碑が建てられた。
1972 昭和47 1973 昭和48 3月28日、千葉県から「伊能忠敬書状」(千葉県史料、近世編、文化史料1 )を刊行。
1974 昭和49 3月28日~30日、NHKラジオ第一放送「人生読本~根気強さ」で伊能忠敬の話を放送(保柳睦美)。
4月13日、NHKテレビで「日本史探訪~伊能忠敬」を放送。
1995 平成7 3月27~28日、フランスに伊能図があるのを知り(日経記事)渡辺一郎夫妻が調査のため渡仏。パリ郊外のイブ・ペイレ氏を訪問。最高級の伊能中図8枚の完全揃いを確認する。
1995 平成7 10月17~19日、佐原市中央公民館でフランスの伊能中図里帰り展を開催。朝日、日経、NHKの報道があって、3日間に各地から3300人が佐原へ集まる。
1995 平成7 11月、忠敬人気に感心して、伊能忠敬研究会結成を呼びかける。全国から、歴史家、社会科教師、大学教員、主婦、測量技術者、忠敬フアン、土地家屋調査士など多彩な顔ぶれが入会。会報第1号を3月1日に発行する。
1996 平成8 6月23日、 伊能忠敬研究会第1回例会を開く。会員74名中47名参加。富岡八幡宮から間宮林蔵墓まで歩測大会をおこなう。
1996 平成8 8月15 日、江戸東京博物館に伊能研渡辺代表と斉藤理事が伺い、「伊能忠敬展」を提案する。
1996 平成8 九十九里町、町制施行40周年記念と、忠敬生誕250周年を記念して、徳富蘇峰筆の生誕地記念碑の隣に、記念公園を設け伊能忠敬銅像を建立する。郵政省、忠敬生誕250周年記念切手を発行。
1996 平成8 11月20日、江戸東京博物館の伊能忠敬展内定。
1996 平成8 12月20日、朝日新聞・JWAから伊能ウォークを提案。
1996 平成8 12月21日、日本テレビNTVで「人生50才の旅たち・伊能忠敬」放映される。(千葉県提供の45分番組。忠敬役は渡辺一郎。解説・案内は江守徹。)
97上期 平成9 江戸博の「伊能忠敬展」決定をうけて、俳優座もチームに参加。
1997 平成9 9月29日、「渡辺一郎著・伊能測量隊まかりとおる NTT出版」刊行。
1997 平成9 10月13 日、江戸博「伊能忠敬展」、伊能ウオーク、俳優座の企画など、グループ内の気勢を揚げるため、「伊能測量隊まかりとおる」の出版パーテイを日比谷のプレスセンタで開く。
1997 平成9 10月26日、「気象庁で最終版伊能大図写本43枚発見、国会図書館に移管」と全国紙各紙一斉に報道。発見者は研究会員で国会図書館特別資料課長(当時)の鈴木純子さん。
1998 平成10 4月10日、「伊能ウオーク」計画発表
(1) 朝日新聞紙上で「伊能ウオーク」の詳細計画を発表。本部隊員公募。主催者は、日本ウオーキング協会、伊能忠敬研究会、朝日新聞社。
(2) 高輪プリンスホテルで「伊能忠敬展」「伊能ウオーク」「演劇・伊能忠敬物語」の 3プロジェクトのオープニングパーテイ開催。
1998 平成10 5月15日 都立中央図書館の伊能小図について、東京都教育庁が報道発表。
1998 平成10 4月21日~6月21日
(1) 江戸東京博物館「伊能忠敬展」開催。過去5年間で2番目の入場者があった。(入場者数111、399名)
(2) 井上ひさし氏の講演会も開催。江戸博の講堂は満席。多数の方が床に座って聴講した。
(3) 国土地理院を中心とする測量グループの御尽力で「ミュージック・ショウ・伊能測量と近代測量」を上演。忠敬役は渡辺。近代測量の解説は野~村院長。伊能測量と近代測量を舞台の上で演じた。
1998 平成10 6月16日、NHK歴史番組「堂々日本史」で「伊能忠敬の日本地図」を放映。渡辺代表は伊能測量の実演指導に出演。
1998 平成10 6月30日、佐久間達夫校訂「伊能忠敬測量日記 全7巻」が大空社より刊行された。測量日記全文の解読本である。
1998 平成10 7月10日、伊能忠敬生誕250周年を記念して、東京地学協会編「伊能図に学ぶ」が公刊された。伊能忠敬研究会員多数が執筆した。
1998 平成10 10月31日~11月3日、東松山の国際スリーデー・マーチ会場で、伊能ウオーク本部隊員選考委員会。渡辺代表は選考委員長を務める。伊能、神保、その他の会員多数が選考大会に参加。
1998 平成10 渡辺代表、伊能ウオーク総隊長に指名される。また随伴車運転要員として伊能陽子さんから大庭さんを推薦。学芸員兼資材輸送担当として新沢会員の参加が決まる。
1999 平成11 1月25日、伊能ウオーク進発。
1999 平成11 9月、忠敬が青春時代を過ごした横芝町では3本の記念碑を建立した。忠敬父の実家・神保誠氏宅前に「伊能忠敬成長の処」碑、父の分家を継ぐ神保弘之氏宅前に「伊能忠敬の父貞恒生活の処」碑、伊能隊が天測をおこなった宿舎・海保兵右衛門宅跡に「伊能忠敬宿泊地観測地」碑の3本である。
1999 平成11 9月30日、「最終上呈版 伊能図集成 渡辺一郎、鈴木純子編 柏書房」公刊。平成9年に気象庁で発見された伊能大図写本の全図を集録した豪華本である。
1999 平成11 11月1日、NHK「そのとき歴史が動いた」で「伊能忠敬」を放映。渡辺代表、撮影指導と出演。
1999 平成11 12月10日~27日、俳優座、新国立劇場で舞台劇「伊能忠敬物語」上演。20回公演をおこなって好評だった。伊能忠敬のはじめての舞台劇化である。
2000 平成12 2月25日、図説「伊能忠敬の地図を読む 渡辺一郎著 河出書房新社」公刊。伊能図だけを説明したはじめての本である。
2000 平成12 4月29日、フジテレビ 番組「近代地図の父伊能忠敬の世界」で、尾道から今治に来島海峡大橋を通行中の伊能ウオーク支隊(渡辺総隊長指揮)のウオーキングを放映。
2000 平成12 5月26日、伊能ウオーク福江大会にあわせて、測量中福江島で病没した坂部貞兵衛の墓所・宗念寺で、約190年ぶりの墓前祭が執行された。記念として伊能家より坂部貞兵衛の忠敬宛書簡10通が福江市に寄贈された。
2000 平成12 6月、伊能ウオーク来島にあわせて、屋久島の上屋久町宮の浦に、伊能測量記念碑として「伊能の碑」が建立された。
2000 平成12 北九州歴史博物館で「伊能忠敬と九州展」開催。期間2000.10.6~11.6 。主催者:伊能忠敬と九州展実行委員会(北九州市、朝日新聞社、伊能忠敬研究会)・北九州歴史博物館。
2001 平成13 1月1日、伊能ウオークは竹芝桟橋で隊列を整頓し、晴海通り半車線を使用して、踏破記念式場の日比谷公園小音楽堂まで、総合警備保障の女子儀杖隊を先頭にパレード。出迎えウオーク参加者を含め全隊列は約4000人と壮観であった。
2001 平成13 1月3日、NHK お正月時代劇で「四千万歩の男・伊能忠敬」を放映する。主演は橋爪功、高島礼子。2時間の大型時代劇で、視聴率10.2% 。渡辺代表が20日間も制作指導にあたり、測量、天測、製図場面を考証。
2001 平成13 3月31日、アメリカ旅行中の渡辺代表夫妻がアメリカ議会図書館で伊能大図207枚を発見。6月18日~22日には日本国際地図学会、伊能忠敬研究会、日本地図センタで合同調査をおこない、207枚の存在を確認した。結果は7月4日関東地方測量部会議室で3者から報道発表され、朝日、読売、毎日、日経、産経、東京、共同、時事、NHKの各社が大きく取り上げ、大ニュースとなった。
2001 平成13 4月8日、広島県神辺町に、「大日本沿海輿地全図完成に尽力した箱田良助生誕之地」と題する碑が建てられた。忠敬の内弟子で、のちに榎本家に入夫して円兵衛と名乗り、榎本武揚の父となった箱田良助の顕彰碑である。
2001 平成13 9月26日、北九州市小倉の常盤橋たもとに、伊能測量隊の九州測量出発点を記念して、北九州市の1級測量基準点をかねたモニュメントが建設され、除幕式がおこなわれた。北九州測量協会、地元商店街有志、伊能忠敬研究会九州支部などの募金によるものである。
2001 平成13 10月10日、釜石市大石出河岸に「伊能忠敬海上引縄測量之地」という記念碑が建てられた。この場所は伊能隊が第2次測量の際、湾口を船で縄を引いて測量したところである。
2001 平成13 10月21日、伊能隊が出発の際、必ず参拝してから出かけた東京深川の冨岡八幡宮に、伊能測量開始200年を記念して、伊能忠敬銅像建立実行委員会の提唱で銅像が建立され、除幕式を挙行された。
2001 平成13 11月17日より約一ヶ月間、俳優座等で制作の、映画「伊能忠敬~子午線の夢」を東映系136館で上映された。
2010 平成22 6月29日、伊能忠敬記念館蔵、伊能忠敬関係資料2345点が国宝に指定された。
【注】

本年表編集にあたっては、大谷亮吉「伊能忠敬」、小島一仁「伊能忠敬」、保柳睦美「伊能忠敬の科学的業績」、の他に佐久間達夫氏の諸資料を参考とさせていただきました。

また、北海道の高木崇世芝氏からも沢山の御教示をいただきました。厚く御礼を申し上げます。


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